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2007年7月

2007年7月31日 (火)

【音楽】ダイブツ君の絵描き歌

 皆さん。実は私には小学校四年生になる『有沙(ありさ)ちゃん』という、かわいい姪っこがいます。

(写真は幼稚園の頃家族でオーストラリアに旅行した有沙ちゃん)

【写真】有里紗ちゃん ≪水着姿の有沙ちゃん≫p>

今はお父さん(私の弟)の仕事の関係で中国の上海にいます。

毎日、元気にお友達と遊んでいますが、ひとつ気がかりなのは大気汚染です。

向こうは光化学スモックなど大気汚染がひどく日本からいった人たちも大変困っています。

実は私の弟もスモッグにやられ、アトピー性皮膚炎になってしまいました。

【写真】有里紗ちゃん ≪家族と一緒の有沙ちゃん。「早く元気になってねパパ!」≫

大好きな有沙ちゃんがそんな公害に負けないように彼女の好きなマンガの絵をアレンジして作ったのがこの絵描き歌です。

まだほんの小さな頃から有沙ちゃんはよく私たち大人の似顔絵を書いて楽しませてくれました。

彼女は『ダイブツ君』が大のお気に入りで、私にはかわいい声で「だいぶちゅくん」と言っては大きな声で大笑いして、はしゃいでいました。

【写真】有里紗ちゃん ≪カンガルーと一緒の有沙ちゃん≫p>

そんな彼女もいまでは小学校四年生。最近残念ながらなかなか会えませんが、いつまでもこどもの頃の純粋な気持ちを忘れないためにも、海の向こうの有沙ちゃんに送ります。

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Photo

ダイブツ君の絵描き歌 【VTR解説】《PCで見てね。↓↓↓》
http://www.dainichi.newport.co.jp/blog/Ekakiuta.wvx

 みなさん、今度新しくダイブツ君の絵描き歌が出来ました。
 みなさんもお友達と一緒に元気に歌ってください。

※オレたちひょうきん族で大ヒットした山田邦子さんの「邦ちゃんの絵描き歌」のメロディーで歌ってください。


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【ダイブツ君の絵描き歌】

 作詞=ダイブツ君
 作曲=ポーランド民謡
 絵 =ダイブツ君

(掛け声)さぁ、みんなでダイブツ君を書いてみよう。歌にあわせて書いたら簡単だよ。それじゃいくよ!

【ダイブツ君の絵描き歌】

(1)(ぐるぐると輪を書きながら)
 ラーメン毎日食べました


追加3

(2)(二つ点を書いて)
 お目々が二つ出来ました

【ダイブツ君の絵描き歌】

(3)(蝶々の羽根を書きながら)
 ちょうちょが

【ダイブツ君の絵描き歌】

(4)(クルクル飛んでくる線を描きながら)
 ヒラヒラ飛んできて

【ダイブツ君の絵描き歌】

(5)(オデコの真ん中に大きな点を書いて)
 ホクロをつければダイブツ君

追加2

(6)(最後にあごを書いて) あっというまにダイブツ君


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 どうでしたか?みなさんも毎日元気に歌ってくださいね!じゃまた。


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【旅行】伊勢志摩の旅〜伊勢神宮御垣内参拝

 先週の土日28、29日と夫婦で伊勢志摩に旅行に行ってきた。今回は結婚10周年記念の旅行だから、特別な旅だ。

 実はもともとは義母(妻の母)も一緒に行く予定だったが、直前に腰を痛めてしまい、夫婦二人だけの旅行になった。

 またさらにありがたい話に結婚10周年記念だからということで、義母が私達夫婦に、プレゼントしてくれたということで、喜びもひとしおだ。

 わたしごとだがこの場をお借りして感謝の言葉を申し述べたい。『お義母さん、素敵な旅を有り難うございました。とても素敵な思い出になりました。お義母さんも早く腰を治して、いつまでも長生きしてください。』

 ということで、今回はこの私達夫婦の伊勢志摩の旅の旅行記をお伝えしよう。

 大阪のなんばから近鉄特急に乗り、約2時間ちょっとで伊勢に到着する。お昼ちょっと過ぎに伊勢市駅に着きここで私だけおりた。目的は伊勢神宮だ。

 初日は夫婦それぞれの好きなところを行き、それからホテルで落ち合うということにしていたのだ。

 同じ時間、妻は本日の宿である、ホテル&リゾート『タラサ志摩』に直行しお目当てのこのホテルの目玉のタラソテラピーをしてもらうことにしていた。

 タラソテラピーと言われてもご存じない方も多いだろうが、これは『海水・海藻などの海の恵みを活かし体を内側から活性化させていく自然療法』のこと。

 エステ、エアロビ、トレーニングジム、リラクゼーションなどを総合的に取り入れた『癒しの楽園』みたいなもので、何か今セレブ(?)な主婦たちの間で話題のスポットらしい。

 私は伊勢神宮参拝、妻はタラソテラピィー。とまぁ、それぞれ初日はそれぞれ別行動することにしたのである。

 いままで伊勢神宮は近いこともあって、一年に一度はお参りしている。実は『漣(さざなみ)』という大盛エビフライで有名なお店があって、妻のお気に入りだというのも毎年参拝する理由の一つだ。

 昨年も7月下旬に参拝し、20年に一度の式年遷宮というお祭りの『お木曳き』というご神木を引くという行事に偶然出くわして感激したのを覚えている。

 実家が名古屋と言うこともあり、子供の頃からこれまでにもう何度も参拝したが、実は今年ほど緊張し気合いが入った参拝はなかった。

 それは、長年の念願であった『御垣内(みかきうち)参拝』をするからだ。

 御垣内参拝とはあまり聞きなれない言葉だが、一般に我々が伊勢神宮にお参りに行くと、神殿の前の入り口の白い布の前から参るのが普通だ。

 特別に許可を受けた場合に限って、神殿を取り囲む囲い(垣内)の中の白い砂利の上で、直接神殿を見て拝むことができる。これが『御垣内参拝』だ。

 実は子供の頃から、お正月などに伊勢神宮に行く度に、多くの人が白い布の前から押し合いへし合いしながら、祈っていて、お賽銭すらまともに入れられない状態をいつも体験していた。

 しかしそんな中、悠然と垣内でお参りする人を見て『あの人たちは一体どんな人たちなんだろうか?』、『よほど特別な人たちなんだろうな?』、『いつか僕もあの中でお参りしたいな』と思っていた。

それが2、3年前のことだった。偶然ある本で20年に一度の式年遷宮に寄付をすれば、この御垣内の特別参拝が出来ると知ったのである。そこで今度行った時は、是非にと思っていた。
 ところが昨年は残念なことに、背広とネクタイで正装して行かないと許可してもらえないと知らなかったので泣く泣く諦めて帰ったのだった。

 しかし、今回は念には念を入れて、事前に電話で確認しまさに満を持して、御垣内参拝に臨むことにしていたのである。

 ところで話しは変わるが、先日週刊紙を読んでいたら、この伊勢神宮の御垣内参拝が別の意味で注目を集めていることを知って驚いた。

 かつて『いいじゃないか躍り』ということで幕末にお伊勢参りが全国的に爆発的なブームを巻き起こしたことは有名だが、今また第2次ブームが起こりつつあるということは皆さんご存じだろうか?。

 実は最近のスピリチュアル・ブームの影響で、伊勢神宮が強力なパワースポットとして注目されているのだ。

 パワースポットというのは、宇宙の気が集中し流れる特別な場所で風水では龍穴などと呼ばれる場所のことである。実は伊勢神宮は日本最大のパワースポットと呼ばれているそうだ。

 さらに神宮の敷地の中でも最もエネルギーの強い場所が天照大神が祭られている内宮の神域『御垣内』と言われている。

 また伊勢神宮と言えば、藤原紀香が陣内智則からプロポーズを受けた場所として一気に人気に拍車がかかっている。旅行代理店によればOLの『憧れの旅行スポット』にもなっているそうだ。

 話しはそれたが、私は毎年回るルートである、神宮外宮から月読宮、猿田彦神社、おかげ横丁からいよいよ内宮についた。いつものように手を洗い口を注ぎ、ゆっくりと深い森の中を内宮の神殿に近づいていった。

 夏休みに入ったばかりで子供連れやカップル、外国人がたくさんいて街中の賑わいとは変わらなかった。

 やがて石段を一歩一歩のぼり、日本の総氏神である天照大神がまつられた内宮の前にたった。

 本来なら、ここで雑踏のなかでお参りするのだが、今日は特別である。外宮の社務所で寄付を済ませ、『特別参宮章』をすでにもらっていたので、本殿向かって左側の詰所の神官に券を見せ、特別参拝をお願いした。

 すると筆で記帳するように言われ、記帳がすむと柵の扉が開けられ中に案内される。荷物はわきにある荷台の上に置いて、いよいよ待ちに待った御垣内参拝が始まる。

 神官の方が礼をされるので後について礼をする。その後、神官が先に歩いていかれるので、ゆっくりとその後をついていく。

 その後本殿の向かって左側の塀の外を沿って中に入る。さらに本殿正面まで案内されると『二拝二拍手一礼の作法でお参りください。』と言われる。

 いつも以上に厳かな気持ちで心を鎮め手を叩きお参りした。あたりは垣の外とは違い、音一つない静寂の中で、少し冷たい冷気のような空気が地面から噴き上げる感じがする。

 真夏の暑い日差しが照りつける光線と地面から噴き上げる冷気とが交錯し不思議な空間にたたずむ自分を感じた。

 お参りは一瞬だった。しかしその後もゆっくりと時間が流れ、気持ちは実に清々しいものだった。

 お参りが終わったら行きに来た道をゆっくり帰っていく。足元がかなり大きめの玉砂利なので転ばないように一歩一歩踏みしめて、ゆっくりと心を鎮めながら歩いていった。

 以上が、私の伊勢神宮御垣内参拝の初体験の報告である。


 なお私も是非体験したいと思われる方にその参加方法と注意事項をお話ししよう。

 まず内宮・外宮どちらでもいいから、先に行った方で社務所に行きそこで『式年遷宮のご寄付の特別参拝をお願いしたいのですが。』という。寄付は家族の内代表者一人が最低千円以上寄付することになっている。

 その時、筆で自分の名前が書かれた寄付の証明書と絵葉書がついた、『特別参宮章』がもらえる。そして絵葉書から切り離し特別参宮章を手渡してくれる。

 実はこの『特別参宮章』は内宮、外宮共通券になるので、一旦もらったら、次からは社務所には寄らず、直接本殿に行き、神官に渡せば手続きは終了と大変簡単である。


 なお『特別参宮章』の裏にある注意事項としては下記4項目が書かれている。

********************

(1)本章は神宮式年遷宮に奉賛された崇敬者に贈る参宮章です。
(2)本章のご使用は記名ご本人(法人及び団体の場合はその代表者)に限ります。
(3)本章で(内宮および外宮の)御垣内特別参拝(みかきうちとくべつさんぱい)が出来ますので、ご参拝の節は内宮及び外宮の宿衛屋にご提示下さい。

 なお男性は背広・ネクタイを着用いただき、女性はスーツまたはこれに準じたもので、ともに不敬に当たらない服装でご参入下さい。

(4)本章のご使用は1回限りです。再交付いたしませんので大切に保管下さい。
********************

一番注意がいるのは、(3)の服装。特に家族が一緒に参拝する場合、連れの人もきちんとした服装の必要があるので気を付ける必要がある。

 私自身今まで知らなかったとはいえ、案外簡単に出来るものだと今回はじめて知った。

 これほどの清々しさは、都会の雑踏と喧騒の中では絶対に味わえないものだろう。これを機に次回からも必ず御垣内参拝しようと思う。

 みなさんも今年の夏休みにお伊勢さんに出掛けてみるのもいいかもしれない。パワースポットの不思議な力が授かるかも!?

【問い合わせ】伊勢神宮

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2007年7月28日 (土)

【歴史】天神祭と水の都

さる7月25日は、天神祭の生中継をテレビで見た。前日にブログに天神祭について書いたので、最初から最後まで見ることにした。

 今までは断片的にただぼんやりと眺めていたが今回は事前に調べておいたので見ていて随分とためになったし、よく分かった。何事も積極的に関わると理解が違う。

さて肝心の番組だが、大阪のローカルにテレビ東京系列のテレビ大阪と言う局があり、午後6時半から9時までの二時間半の放送だ。開局25周年でかなり気合いの入った作りでもある。

司会は西川きよしと元フジテレビアナウンサーの八木亜希子で、ゲストに小林幸子や美川憲一などの歌手やタレントだ。お祭りのライブ中継の間に、歌やモノマネなどをまじえて飽きさせない趣向だ。

この番組が偉いのは、単に上辺の番組でなく、歴史的な意義や由来をしっかりと調べていて、現場での事実に基づく取材を怠っていないことだ。

 一人天神祭博士のような男性のアナウンサーがいて毎年解説をしているようである。毎年毎年のことなので、去年や一昨年と違うネタを探して毎年放送しているようなのだ。

 司会の西川きよしが『その話は去年は聞きませんでしたね』と何度も何度も大きな目をきょろきょろさせて感心している姿が印象的だった。

 さてここで大阪以外の方には馴染みの無い方もお見えだろうから、天神祭の概要をざっくり説明しよう。

 まず大阪天満宮という菅原道真をお祭りした天神さまを中心にしたお祭りで、途中何度か中断はあるものの天歴5年(951)からはじまり、今年で1057年目を向かえる大変歴史のあるお祭りだ。

 毎年7月の24日、25日の2日間行われる。一日目が宵宮(よみや)、二日目を本宮という。そもそも、年に一度天神さまが、神殿を抜け、川の流れで自らの身の御祓払いを行われる儀式である。

 そこで祭りはまず御祓払いの場所を決めるため川の上の船から鉾を藁のようなものでくるんで流し、流れ着いたところをお祭りの場所(祭場)と定めたのだった(鉾流神事)。

 次に年に一度、おそれ多くも神様が我々の目の前を通り川辺の祭場まで御祓払いに行かれるので、当然道案内やら、露払い、賑やかしの笛や太鼓、お供の行列は賑やかだ。

 これが天神様を特別の神輿に載せ、神殿のある大阪天満宮(宮)から、まず陸路を通って船着き場まで運ぶ(陸渡御)。

 その後川の船着き場(天神橋)から特別な船(御鳳輦船:ごほうれんせん)の上に神輿を載せ、それを祭場まで漕いでいき(船渡御)、儀式を済ませて、また宮まで無事送り届ける(宮入り)。簡単に言うとざっというとそういうお祭りだ。

そもそも大阪天満宮は、菅原道真が都から太宰府に流される時に、前の晩、大阪藤井寺の道明寺というお寺で、尼をしていた伯母さんと朝まで話し込んでしまい、その後、先を急ぐ道すがら立ち寄ったのがこの大阪天満宮の場所の前身だった大将軍社という神社だった。

 903年に道真が没した後天神信仰が始まり、949年この大将軍社という神社の前に道真公の威光の光で眩しいばかりの七本の松が突然現れ、その話が都まで伝わり村上天皇の命で建てられたのが大阪天満宮の最初である。

だから大阪天満宮では、道真公がたってしまわれる朝を表すと言うことで一番鶏は意味嫌い、今でも神官は鶏を食べないそうだ。

 さてこのお祭りだがやはり何と言っても他のお祭りにない最大のインパクトは、船渡御(ふなとぎょ)である。

5000発近い奉納花火が打ち上げられるなかを、神輿を載せた船を始めにそれこそ無数の船が川の上を漕ぎ、笛や太鼓、祭囃子とその賑やかなこと。

派手ずぎな商売人の町、大阪らしい大イベントである。

船でご神体をお運びするお祭りというのならば、福岡県の宗像大社のみあれ祭も有名だ。海のシルクロードと呼ばれ、大陸との交流の要所にあった玄海の孤島、宗像沖ノ島ではいまでも女人禁制で、島全体かご神体であり、入島の前には全員全裸で海に入り、御祓払いを行わなければならない。

 その宗像三神の女神たちを三つの離れた島からひとつに合わせるのがこのお祭りで七浦の漁船が総出でお供し、色とりどりの旗やのぼりで飾られた大船団がくり出す漁師たちの大祭だが、しかし天神祭とは規模が違う。

 また、海外では水の都イタリアのベネチアで開かれるヴォガロンガという小舟のマラソンなどがあり、5000人近い人が参加する賑やかなお祭りだが、歴史はまだ20年そこそこと浅い。

 また他にも船を使った海外のお祭りとしては、またカンボジアの首都プノンペンの水祭りなどがある。王宮の前、トンレサップ湖の水がメコン川に合流する地点で行われるボートレースで、大観衆がレースを見守るそうだ。

 しかし、おそらく千年以上の歴史を持ち、なおかつ世界的大都市での大きな規模を誇る水上の船を使ったお祭りは、他に類を見ないものだろう。

 船渡御の素晴らしさとインパクトに圧倒されながら、そういえばこの町、大阪はかつては『水の都』と呼ばれていたのだということをふと思い出した。。

 今は埋め立てられて道路になっているが、その昔江戸時代には、大江戸八百八町と呼ばれた江戸に対し、天下の台所、浪速八百八橋と呼ばれたものだ。心斎橋、淀屋橋、道頓堀、天神橋、天満橋、土佐堀通りなど当時を彷彿とさせる地名も数多い。

 さらに聖武天皇の難波京の時代から、古くはシルクロードの日本の玄関口であり、中国・韓国との貿易外交の核となる、国際港湾都市であった。

 また、海路は瀬戸内に大きな口を開け、日本中の海路という海路がここに終結した。

また豊臣秀吉が開いた大阪城を中心に商人がすむ町となり、町中運河で張り巡らされ、中之島を中心に大名の蔵屋敷が建ち並び、北浜には日本で最初の証券取引所ができ、この地域は三大市場と呼ばれ、米、塩などの日曜生活雑貨から、各地の海の幸、山の幸の産物が集まり、まさに商流・物流・情流・金流の接合点であり、コアだった。

さらには、淀川を通じて、京都まで通じる大阪は、木津川、宇治川、桂川という三本の大きな川の合流する、要衝の地、淀城をポイントに、軍事的な要衝でもあった。

 と学校の教科書でならった知識を総動員して、この水の都のかつての姿を想像してみるのだった。

 私も大阪に住んでかれこれ20年になるが、今は正直、水の都と言われてもピンとこない。大阪と言えば万才とたこ焼きの方がイメージしやすい。

 しかし、この町で千年もの間歴史をくまなく見てきて、時々の要素を取り込んできた天神祭は、水の都大阪のDNAをまざまざと眼前に甦らせてくれる。

 祭りの賑やかさの向こうに見える歴史の静けさであった。


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2007年7月27日 (金)

【経営】祇園祭と疫病神の物語

 京の夏の風物詩を彩る祇園祭。宵々山、宵山、山鉾巡航と祭りはクライマックスを迎える。このお祭りが終わると関西では梅雨が明け本格的な夏を向かえる。歌ではないが、まさに『夏は来ぬ』である。

 私は関西に住んで20年になるが、一度行きたいとは思っていたのだが、祇園祭に出掛けるご縁は今までなかった。暑さと人混みが嫌だったからということあるし、単なる出不精ということもあるが。(笑)

 さて、この祇園祭だがそもそもの由来はご存じだろうか。祇園祭といえば京都の代名詞かと思うが以外にそうでもない。

 よく仕事で福岡に行くのだが、祇園と言う駅もあるし、小倉(北九州)には小倉祇園太鼓という男らしいお祭りもある。

 あの博多の有名なお祭りの山笠だって、正式には『博多祇園山笠』というのだから、祇園祭は京都だけの専売特許ということでもないらしい。

 ウィキペディアによると祇園祭とは平家物語に出てくる祇園精舎の守り神だった牛頭天王(ごづてんのう)をお祭りしたものだ。それがやがて素戔嗚尊も合わせてお祭りするようになったそうだ。

 しかしこの牛頭天王とは疫病が流行ったときに鎮めるということで、世に言う『疫病神』としても知られる。京都の八坂神社も博多の櫛田神社も疫病を鎮めるために建てられた。

 そういえば、最近、妻夫木聡が主演している、浅田次郎原作の映画『憑き神』が話題だ。

 私も予告編程度しか見ていないが、この映画、しがない武士がげんかつぎにお祈りしたお稲荷さまが実は、貧乏神、疫病神、死神の巣だったことから巻き起こるドタバタ劇だそうだ。

 西田敏行演ずる貧乏神、赤井英和扮する疫病神、名前は知らないが最近よくテレビに出てくるかわいい子役の女の子の死神と、映画ではユーモラスで人間臭い神様たちの面白さがある。

 しかし、本当にこんなのにとり憑かれたら大変だろう。冗談ではすまない。人生最悪だろう。私は素直に願い下げだが。

 実はこの祇園祭の神様も疫病神として嫌われものの一面を持つから大変だ。

 疫病を撒き散らすと同時に親切に迎え入れた農民に対しては万病に効く術を授けたとも言われている。

 これについて八坂神社では昔話としてこんな有名なものあるそうだ。

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 ある時、疫病神が老人に身を変えてお忍びで旅に出たました。とある村にさしかかり、そこに一夜の宿を求めました。

 このときこの村には、二人の兄弟が住んでいました。兄の巨丹は裕福なのに冷淡でした。

 疫病神が兄の巨丹のもとを訪ねると、兄は言いました。
 『このうずぎたない爺じいめ。辺りが臭くなるわ。縁起が悪いから、どこかへ言ってしまえ。』と石を投げて追い出し家から遠ざけました。

 次に疫病神は、真面目で働き者ですが、貧しい生活をしていた弟の蘇民のもとを訪れました。

 貧しいあばら屋に住んでいた弟の蘇民は、みすぼらしい身なりの疫病神を親切に我が家に招き入れ言いました。

 『おじいさん、どこから来たんだい。その年で長旅は大変だろう。うちなら、いくらでも休んでいってもらって構わないんだよ。

 ご覧の通りの貧乏暮らしで何もお構いできないが、さあさ、上に上がって家族と一緒に暖かいお雑炊でもすすっておいでなさい。』とみずぼらしい姿の疫病神を貧しいのにやさしく迎え入れてもてなしたのでした。

 そこで疫病神は正体を明かし、「こんなみすぼらしい爺を手厚く親切にしてもらって本当にありがとう。お礼と言ってはなんだが、ひとつお前さんにいいことをお教えてしんぜよう。

 近々この村には、死の病が流行るであろう。男も女も、年寄りも子供も皆地獄の苦しみで死んでいくことじゃろう。しかし、お前は真面目でよく働き、親切なこころやさしさをもっておる。だからお前の一族だけは助けてやるとしよう。」と言いました。

 しばらくして、その話は本当になりました。多くの人が亡くなる死の病が大流行し、次から次から人々が苦しみながら死んでいきました。その様子はまさに地獄のようでした。

 そして強欲で冷たく金の亡者だった、兄の巨丹の一族は次から次へ全部死んでいってしまいました。その酷さは他の家族より悲惨なもので誰かの呪いだと噂されました。

 一方まじめでこころのやさしい弟の蘇民の一族は、不思議なことに皆全員無事で助かったということです。

 現在でも八坂神社などでは赤い地の紙に金色の文字で「蘇民将来子孫之門」という札を配布していますが、その由来はこの故事を基にしているそうです。

(オリジナルは備後風土記より)

***********


 マンガ日本昔話に出てくるような話だ。世知辛い今のご時世を考えると、他人に親切にするよりまず自分のことが先である。さもなければ、この激烈な競争社会生きていけないだろう。

 しかし、相手が例えば疫病神だろうと、貧乏神だろうと、仮に自分に災いが降りかかろうとも、同じ神様ならば大切にして当然だという弟の蘇民の発想は普通とは異なる。

 この発想は明らかに常識はずれの心の広さであり、心の余裕の現れでもある。

 とかく我々は、自分の都合のいいときだけご利益を求めて、神頼みするのが普通だ。

 しかし弟の蘇民は表面的には、たとえ自分に不利になろうとも、相手が神様ならばできる限りの誠を尽くそうと努力する。

ひるがえって我々商売、ビジネスの世界も『お客様は神様』と言われれる。

 目先の利益だけで生きていると、一時はいい時期もあるが、兄の巨丹のように結果は一族すべて滅びてしまう。

 なぜなら神様(お客様)は自分が利益を得るための都合のいい相手だと腹のそこでは思っているからだ。だから神社で手をたたいても、『儲けさせてください』と自分の都合だけをお願いする。

 しかし本当に神様(お客様)のことは考えていないので冷淡に追い返してしまう。自分が儲けたいときだけ都合よく神様だ。

 弟の蘇民は自分の都合や利益の前にどんな時にも神様(お客様)に真心を尽くす至誠の心で接する。

 どちらも形の上では『神様』と手を合わせる姿には違いがないが、その心持ちは180度違うだろう。

 弟の蘇民のような心持ちで神様(お客様)に接すれば、一族も企業も末長く永続的に発展するのだ。

 最近、兄の巨丹のような人たちがテレビで頭を下げたりする無様な姿が目立つ。こういう人たちに限ってよく口先だけで『お客様第一』を口にする。つまり自分の都合に合わせてのお客様と言う意味だ。

 企業もコンプライアンスやら、CSRと騒ぐのもいいが、まずは基本にかえって弟の蘇民のような心持ちを持つことが先決だろう。


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2007年7月25日 (水)

【社会】お祭りと梅雨明け

私も関西に住んで早いものでもう20年になる。関西は特にこの時期になると大きなお祭りがある。

 日本三大祭りのうちの『京都の祇園祭』と『大阪の天神祭』である。三つのうちの残りの一つは、東京神田の神田祭だ。

三大祭りのうちの二つが関西でおこなわれ、この時期に集中しているのも面白い。

京都の祇園祭は、祭りのクライマックスである宵山が毎年7月16日、山鉾巡行が7月17日に行われる。2007年の今年はすでに先週終わっている。

そして大阪の天神祭は、これも毎年7月の24日に宵宮、25日つまり今日祭りのクライマックスの本宮が行われる。

 特に25日には、大川(旧淀川)に多くの船が行き交う船渡御(ふなとぎょ)が行われ、夜には奉納花火がある。

私は人混みが嫌いなもので、これまで関西に住んでいながらどちらのお祭りにもまだ行ったことはない。とにかく恐ろしいほど多くの人出なのだ。

 それに、どちらのお祭りも地元のテレビ局が放送するので敢えて人混みのなかに足を運ぼうとも思わない。

ただ、この時期出張などで昼間町中を歩いていると、浴衣を着た若い御嬢さんたちの団扇(うちわ)を手にした艶やかな姿を見て、アァ今日はお祭りだったか!と初めて気付くと言う有り様である。

 さしづめ仕事中毒のビジネスマンには普段はあまり関係はなさそうなイベントなのだ。私の友人などは人混みを避けるため、この日はわざわざ仕事を作って出張にでかけるそうだ。

そんなわけだから、祭りの風情を味わうなどというのとはほど遠いのだが、しかしこのお祭りは関西の人たちには、梅雨が開けて本格的な夏の到来を知らせる大切な『呼び鈴』のようなものになっている。

先日もタクシーに乗っていたとき、私が『今年はまだ梅雨は明けないのでしょうかね?』と質問すると、運転手さんがこう答えるのである。

『祇園祭が先週終わって、今週が天神祭。梅雨明けも間近でしょうね。』と。

 彼の話によると、毎年関西の梅雨明けは、7月20日前後で、祇園祭の時はまだ梅雨のなかにあることが多く、天神祭の時には、たいてい梅雨が明けて、かっーと太陽が照りつける本格的な真夏になっているとのことだ。

確かにこの言葉を聞いて思い出すと、なぜだか天神祭りの時は決まって、京橋のOBPに出張に行っていることが多く、会議が終ってエアコンの効いた建物から出てくると、花火の大きな音が聴こえ、多くの人出と、また梅雨が開けた独特の真夏のクソ暑さと日差しの強さを感じたことを思い出した。

 ちなみに運転手さんの言葉に興味があったので調べてみると、気象庁の過去の統計によると、1971-2000の30年間では、近畿地方の梅雨入りは、6月6日頃で、梅雨明けは、7月19日頃だそうだ。

 梅雨の入明には平均的に5日間程度の遷移期間があるので、その期間のおおむね中日をもって「○日頃」と表現としているそうである。。

 今年の場合、近畿地方の梅雨明け宣言は昨日7月24日だされ平年の5日遅れ。つまり天神祭りの当日だった。

 雨の季節の梅雨が、天を司る天神祭に明けるのも面白い因縁である。

いずれにしても、今年も夏本番である。皆さん、エアコンの効かせすぎや冷たいものの食べ過ぎで、体を壊さぬよう、スタミナをつけてパワーで乗りきりましょう。


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2007年7月20日 (金)

【健康】お酒をやめて健康になったの??

  世のメタボの皆さん、お待たせいたしました。さて私がお酒をやめて2ヶ月たちました。本当に宇佐美は健康になったのだろうか?数値は改善したのか?体重はやせたのか?医者はなんと言っているのだ?効果があるのなら俺もやろうか????

  皆さんのお聞きになりたいことはよく分かりますよ。そうですよね。そこが一番知りたい点だと思います。今日はゆっくりそのことをレポートしましょう。

  しかし、まず最初に誰でもお酒をやめたらそんなによくなるのかという誤解を避けたいので私の場合の前提条件をお話しておきたいと思います。以下の5項目です。

 (1)お酒が好きで毎日たくさん飲んでいた。つまりお酒をやめればそれだけ数値的な効果が高い人だということ。
 (2)体重を下げる努力はそれまでにしていた。前にもこのブログで詳しく触れたが、ピークは100Kgまであたったものを、72〜73Kgまで減らしていた。
 (3)お酒をやめるのと同時に徹底的にサプリメントを研究し自分の体質や病気にあったものを飲んでいた。(これについては後日特集でより詳しく書こうと思う)
 (4)お酒をやめると同時に専門の医者へ行き治療を受けていること。裏返せばそれまではほとんど専門の医者には見せていないので、数値は大きく向上する背景はある。
 (5)宇佐美家自体、体質的にかなりの肥満の傾向があり、血糖値、血圧ともに高く、体質遺伝であり、もともとの数値は高いこと。

 いずれにしても以上のような前提条件があるということを踏まえて以下のお話を聞いていただきたいと思う。(さらに人によって個人差があるのであくまで数値は参考程度に聞いていただきたいのと、詳しいことは必ず専門医とご相談の上判断をいただきたい。)

 結論から言って一番気になっていた糖尿病の影響は数値の上ではまったくなくなりました。よく血液検査の血糖値とならんで、糖尿病の時の重要な指標として見られるものとしてHbA1C(ヘモグロビン)があります。この値は血糖値と違って過去1ヶ月の間のトータルの血糖値のコントロールがうまくいっているかどうかの指標です。(血糖値の場合、食後から何時間たっているかで大きく変動してしまい指標としてはヘモグロビンの値を主たる指標として多く用います)。

  さてこの値は基準値が4.3%〜5.8%にあると正常といわれます。私の場合、1年前吐き気が一番酷かった時に、この値が9.1%もありました。どの医者に見せてもはっきりと異常という数値でした。結果として吐き気も最悪でした。

  そして同じ症状がこの5月はじめに再発。そして5月5日お酒をやめました。そして5月24日に専門医に行って血圧検査をしてもらった結果、この値が5.5%にまで落ちていました。私としては、体重制限もしていましたし、カロリーコントロールもしていました。サプリも徹底的に研究して飲んでいましたので、最後はお酒をやめれば相当の数値まで改善するだろうという読みはありました。

  しかし、正直9.1%が5.5%とわずかな期間で改善するとは思いませんでした。行った医者は大阪の北部地域でも糖尿病の専門医として大変有名な人で、今までも数多くの患者を見てきた人です。かなりのスパルタ管理としても知られる人でしたので、最初は覚悟していきました。

  しかし、その医者の第一声が、「驚いた。こりゃ大変なことが起こっているぞ」だったのです。私は過去の経緯もありますから、てっきり最悪の結果を想像しましたが結果はその逆でした。第一声に続けてこういいました。「あなた奇跡ですよ。正直言って状況を聞いて酷い数値だと予想していたが、正常値ですよ。あとは今までどおり食事療法だけで、いいですから。お薬は飲まなくてもいいです。」

  この言葉を聞いて本当にほっとしました。お酒をやめてからの2週間くらいはかなり色々な面に気をつけていました。また何故お酒をやめてすぐに医者に行かなかったといいますと、大体人間の体で細胞が一通りターンオーバーするのが2週間、一ヶ月たつと一通り入れ替わり、2〜3ヶ月で体質も少しづつ変わるといわれていたからです。

  うれしさのあまり、私は先生の言葉に続けてこう質問しました。「お酒をやめて2週間になりますがそれが効いたんでしょうかね?」それに対してこういう返答でした。

  「普通はお酒をやめたぐらいで短期間にそんなに良くなる訳はないのですがね。それまで余程たくさん飲んでいたんじゃないですか?」

  先生としては皮肉か何かのつもりで半分冗談で言ったのでしょう。しかしそう言われた私としては、その言葉がまさに図星だったので、笑うに笑えませんでした。勿論最後に「油断は大敵ですからね。気を緩めればまた元に戻るのがこの病気ですから。これに懲りてお酒は一生やめることですね。」といわれた私は思いっきり大きな声でこう答えた。

            「はい。先生!!!!!!!!!」

ということで、ひとつの不安はなくなった。

  糖尿病で苦しまれた方、今戦っておられる方々はよくご存知だと思うが、糖尿は今国民病といわれ、潜在的な人も含めて、国民の6人に1人が糖尿病と言われている。初期のころは特に自覚症状がないが、特に進行が進むと脳卒中、心筋梗塞の大きな要因であり、手足に血流がめぐらなくなり、痺れや冷えのみならず最後は壊疽を起こし切断しなければならなくなる。また毛細血管への血流の影響が出ると、眼底に出血し最悪は失明をおこす。糖尿の進行で腎臓も悪くなり、最悪は人工透析を行わなくてはならず地獄の苦しみを伴う。先天的に糖尿病の人もいるが現在は多くが生活習慣から来る後天的な場合が多い。

  治療には一般に食事療法、運動療法、薬物療法とあるが、なんと言っても肥満が諸悪の根源である。食事制限ではまず厳しいカロリー制限があるが、バランスの取れた食事ということも大事な要素である。つまり健康にやせないと意味がないといわれる。運動も大切だ。生活の一部として無理なく続けられる運動を工夫しなければならない。生活習慣全般を見直すために教育入院という方法も最近では多くなっている。

  薬は最後の手段である。まずは血糖値を下げる薬を処方されるが、さらに進むとインシュリン注射も行わなくてはならなくなる。そして糖尿病の治療が大変なのは薬を飲んでも症状を抜本的に改善し完治させるのは大変な困難なことだ。つまり、多くは一生薬を飲み続けなければならないのだ。そのことを良く知っていたから先生の「薬は飲まなくてもいいですよ。食事療法だけでいいです。」という一言は非常にうれしかった。

  今回のように糖尿病の血糖値が高いだけでなく、血圧、高脂血症、高コレステロールなどとの合併症であらわれると最悪である。生活習慣病のデパートといわれ、これが世に言うメタボリック症候群、メタボのことになる。つまり単に太っているとか、ウエストが気になるなんて悠長なことを言っているうちはまだいい。知らず知らずに進行し、ほっとけば死の恐怖がそこまで忍び寄るのがメタボの本当の怖さなのである。

  今回、私は原因不明の吐き気で苦しみ、それが糖尿が本ということで、断酒に取り組んだ。(先のブログに書いたように)勿論そこには妻の一言や、背中を押してくれた酒豪の友人の断酒の決断もあった。問題は先生と約束したように一生続けることだろう。元に戻ったらまたもとの木阿弥だ。それが自分自身の健康のため、家族の心配をなくすため、そして新しい人生を踏み出す、そのきっかけではじめた断酒である。

  決断すること、まずやり始めること、そしてやり続けること、最後に何があってもやめないこと。でも今回は肩の力を抜いて自然体で、誰かに言われてやるのではなく、ムリ、ムラ、ムダなく気持ちよく続けられそうである。

 とにかく行動を起こしましょうよ!メタボの同志の皆さん。

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2007年7月19日 (木)

【断酒】お酒をやめてはじめて気づいたこと

  さてここまで【断酒】シリーズで、私がお酒をやめたことに対する色々な話をしてきた。
まだ2ヶ月しかたっていないがお酒をやめて何か変わったことはあっただろうか?
何か気づいたことはあっただろうか?今日はそんなお話をしたい。

(1)「糖尿でお酒やめました」と一言で納得するメタボ親父

  私のような仕事をしていると、お酒や食事の誘いは大事な仕事の一環である。特にクライアントからすれば、日中には腹を割って話せないことでも、そうした席では「実は先生 。。。。。」と相談を受けることも多い。だから、大事な仕事なのだ。

  今回お酒をやめたので、酒席に入る前に、まずは、お酒をやめましたという宣言と理由の説明が必ずいる。仮に普段どおりに酒席にいくとしても、そのことを説明しないと始まらないのだ。

  ただしこれは、思ったほど難しくなかった。何しろ世はメタボリック親父ばかりだから、「糖尿の影響でやめました。」と一言言うだけで皆さん納得してくれる。逆に「数値はいくつ?」「いつから?」などとしばらくその話で持ちきりで、案外いい話題を提供してくれたと思っている。

(2)お酒を飲まなくても「酔うんだ」!

  その次に大変なのは酔っ払いにいかにペースを合わせるか?という問題だ。普通は大体みんな同じようなペースで飲むので、酔いのメータ−も同じように進むわけだ。しかし今度は自分だけ飲まないわけで、果たしてどうだろうか?ということだ。

 これもお酒をやめてみて始めて気づいた不思議なことがある。一般に私たちは「酔う」といった時に勿論お酒に酔うという使い方を一般にする。しかし、辞書をひくと(a)酒に酔う (b)乗り物に酔う (c)何かに引き込まれる。うっとりする。(例)「名演奏に酔う」 とある。

  実は私が不思議だといったのは、酒席にはお酒以外の酔わせるものがあるということだ。
  ○料理に酔う  ○雰囲気に酔う  ○会話に酔う  ○良き人間関係に酔う
  ○お水に酔う  ○睡魔に酔う などなど
なにかこういう言い方をするとキザな評論家のようなだが、本当に酔うのだ。私の場合酒であれ水であれ大して変わらない。つまりどちらもあまり酔わなかったから。しかし、酒席ではみんなと一緒にいい気分になり、うとうとと眠くなり、宙に浮いた気分になる。これは間違いなく酔っている。

  しかし、以前にもあったが酒を飲んでも酔わないときがある。深刻な話や厳しい状況でリラックスなどできないときなどは絶対に酔わない。どんなに飲んでも酔わない。あるいはストレスが相当たまっているときなどは逆で少しの酒でも相当に悪酔いする。ヘベレケになり誰かに絡む。私も色々な人に絡んで迷惑をかけたのを覚えている。

  つまり、飲む酒の量はあまり問題ではないのだ。その場のトータルな条件によって「酔う」「酔わない」が決まるのだということを、酒をやめて初めて知った。一仕事終えてほっとしているとき、誰かと信頼関係が深まって喜びを共有できるとき、おいしいお料理に舌鼓を打つとき、仕事の心地よい疲れで気分よくうとうとするとき、周りのみんなが機嫌よく飲んでいて盛り上がっているとき、確かに自分もお酒を飲んでいるのと変わりなく、「酔っているのだ」。本当こればかりは不思議だ。

(3)生まれて初めて「酒臭さ」を実感した!

  もうひとつ気づいたことがある。「酒臭い」ということを生まれて始めて感じたことだ。よく「酔っ払いは自分では絶対に酔っているとはいわないもんだ」と。あれはよく分かった。今までは自分が酔っているから、酒臭いなどということは感じなかった。仮に自分がしらふで誰かが酔っていても、匂いはたいして気にならなかった。しかし今度は違った。

  臭いくさい。あの臭いはたまらない臭さだ。終電近くに電車に乗るとそれがよく分かる。酒を飲んだ人間のだらしないふらふらした足取り。ロレツの回らないしゃべり方。あれは飲んでいない人間からすれば、すべて嫌に見えてくるのがよーーーーーく分かった。

  「なんだよ、宇佐美さん。たかが2ヶ月お酒やめたくらいで、もう飲まない人間の味方するのかよ」と裏切り者と呼ばれそうだが、しかし生まれてはじめて酒を飲まない人間が酒飲みを必要以上に毛嫌いする気持ちが分かったような気がする。

  でもご安心を!!酒飲みの皆さん。私はお酒のすばらしさを誰よりも知っていますよ。
だから毛嫌いなんかしません。でも客観的に見ることで、飲みすぎはまずいなというのははじめて分かりました。

(4)お酒を飲まなくてもよく眠れるんだ。

    お酒をやめる決断をする前、気にしていたことのひとつだ。私は意外に睡眠が浅くて困ることが多かった。夜中に何度も目覚めてしまうとか、とにかく気分よく朝まで熟睡することが少なかった。そのためよく眠る意味もあって、お酒を飲んでバタン、キューで寝ていた。確かにお酒は不眠症の人には効果があるといわれる。

  だから果たして、お酒をやめてよく寝られるだろうか?と思って心配していた。しかし、結果は意外にも予想とは逆だった。よく寝られるんですよ。これが。理由は今のところ分からないが、体調がいいこともあるかもしれないし、日中よくエネルギーを使うので、適度な疲れが睡魔を誘うのか、理由は色々と考えられるが、とにかくこの点は取り越し苦労だった気がする。

(5)お酒を飲まないと時間の使い方が変わるんだ。

  これも日常の習慣が変わるので最初は予想つかなかったことだ。とにかくそれまでは毎晩決まって夕食の度にお酒を飲んでいたわけだ。そうするとあとは寝るだけ。つまりお酒を飲まないということは、夜毎日しらふで過ごす事になる。一体何するんだ?その時間?と真剣に考えた。

  私が尊敬する恩師でずっとお酒を飲まれない方がお見えになった。その方は中学しか卒業していない現場のたたき上げで筋金入りの改革者だった。外見からは相当飲むような感じの人だったが、一滴もやらない。その人が夜何をしているかといえば、読書だとおっしゃっていたのをよく覚えている。

  「何、この俺もまじめに読書するのか?そんなのカッタルいよ。」これは私の本音だった。仕事柄本は腐るほど読むわけで、夜家に帰ってまで読む気にはならない。SEの仕事をしている人で日中仕事でパソコンばかり見ている人が、家に帰ってからも自室に入ってパソコンをいじっているとしたら、明らかなオタクなのと同じだと思った。

  さあ、どうしようか?  これも結果からいうと心配には及ばなかった。まず家族との会話が増えた。それまでは夜話したくても酔っ払いのヨッピー相手では話せないと思っていたらしく、最近では酔っ払っていないので、妻が喜んでいて機嫌がいい。

  それと、このブログだ。ちょうどお酒をやめて1.2週間してこのブログをはじめた。もし今でも飲んでいたら、こんなに長続きはしていなかったろうと思う。

  とにかく習慣が変わると、生活そのものが変わる。そうするとそれまでは無理だとか、俺には絶対できないとかと既成概念で決め付けていたものが、変われば変わったで、また新しい環境に合わせて自然に変化するのが、人間の体なんだなということを改めて感じることができたように思う。これが一番の気づきだったろう。

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2007年7月18日 (水)

【断酒】我が友、お酒との思い出

  さて今まで断酒について色々とお話した。しかし、皆さんにお断りしておきたいのは決してお酒が嫌いになって、断ったわけでもなんでもないということだ。正直言えば、今でも当然大好きだし、お酒の魅力もまた悪い点もよく知っているつもりだ。

  言い方が悪いかもしれないが、あえて誤解を覚悟でいうならば、「酒は長年連れ添って、わけあって分かれた愛人であり、いまでも好きな人。ちょっぴりわがままだけど甘え上手で魅惑的な小悪魔的ないい女」という感じだろうか?演歌の世界になってきたぞ。(笑い)

  というわけで、今日は皆さんにお許しいただいて、この愛人、いや違ったお酒との思い出を語りたい。「何を分かれた女に未練がましいわね」と怒られそうだが、しかし思い出はいつまでも断ち難く、ブログに書いて多少とも記憶に残したいのである。

  さて先に書いたとおり、私の一族は大酒のみである。特に父方は大変に強い。昔から子供ころよく聴かされた話がある。父の母親(つまり私の祖母)の実家というのが、名古屋で銘木店を経営していたそうである。そこの創業者であったひいじいいさんというのが、たいした商売人で体が太っていて、めっぽう酒に強かったということだそうだ。

 銘木店というのは、大きな山の中に入っていって、何十年もあとに立派な材木に育つだろう杉の木などを先を見越して買い付ける仕事だそうである。つまり、先を見る先見性がないとできない商売である。私の体の中にもそういう血が入っているのかもしれない。

 さて思い起こすとこの宇佐美家(つまり父方の一族)というのが大変な酒好きで、また宴会好きでもあった。父の兄弟は男5人、女2人という昔の典型的な大家族であり、当時同族で会社経営をしていたこともあり、よく祖父の家に集まっては宴会を繰り広げていた。

 単にお酒を飲んで騒ぐだけでなく、芸達者が多く、小唄、長唄、どどいつ、踊り、日本舞踊などなど何でもござれのような感じで大変な宴会だった。今でもカラオケで集まると、全員がプロなみの腕前で見ている人間は正直舌を巻くのである。一度カラオケの様子をビデオで取ったものがあったので、知人に見せたが正直言ってひっくり返っておどろいていた。

 「なんだこの一族は!!!!全員芸人だにゃーこれは。」と。同感である。

  このにぎやかな家系の中にあって、やはり父も酒は強い。子供のころから、毎晩晩酌は当たり前だった。しかし、なぜかビールしか飲まない人なのだ。理由がまた面白い。「不思議なことだが、ワシはビール以外のお酒を飲んでも酔わないんだ。どんなに飲んでも酔わない。しかしビールだけは1本程度で酔うことができる。その方が経済的にも体にもいいので、毎晩風呂上りにビール1本必ず飲むことにしてる。」と、これは本人がよく言っている言葉である。

 これが私の大酒のみのルーツである。カエルの子はカエル。やはり血は争えない。

 その後、私は故郷、名古屋を後にし、早稲田大学に進学し、本格的に酒の味を覚えることになる。ご存知のように、いまや斎藤祐樹くんで有名な母校は大隈重信公が創設以来、バンカラで知られ、酒はきっても切れない存在だ。私のときもそうだった。

 一年生でサークルに入り、まずは新入生歓迎コンパ(シンカンコンパ)だ。とにかく手荒い歓待なのだ。私のときはまず洗面器がもってこられビール5本くらい一気にそそがれる。それを一気飲みさせられるわけだ。また、悪いことに私が入学した年は、ちょうどチューハイが始めて流行した年で、かなりアルコールが強いのに一気飲みがはやって、足をとられて倒れる連中が多数出た。

 さらに早稲田大学が創立記念100周年の年で野球だけでなく、とにかく様々な競技で優勝優勝の騒ぎで、当時新宿の歌舞伎町のコマ劇場前の噴水広場では、全員が池に入り全身水浸しで、連日校歌である「都の西北」を歌い、同じ大学というだけで、見ず知らずの人間と肩を組んで、騒ぎまわるというドンちゃん騒ぎだった。

 というわけで、まずはサークルで始めて本格的に飲み始めた。なにしろ「吐くぐらいなんだ。人間吐きながら酒は覚えるものだ」という筋金入りの先輩たちに薫陶を受けた。

 しかし、普段はお金がない貧乏学生だったこともあり、飲みたくてもそんなに飲めなかった。同じ名古屋出身の親友がいたが、時折彼の下宿へ泊りがけで遊びに行ったときに
お互いにお金を出して買って分け合って飲んだ、1リットルの缶ビールの味が今でも懐かしい。

 その後、実際に私が本格的に酒が強くなったなあと思うのは、政経塾時代にアメリカに留学したときのことだ。当時下宿させてもらっていた家で、毎晩のようにビールを飲むようになった。当時日本で買うと、350mlの缶ビールが300円くらいした時期に、アメリカでは30〜40円だった。為替の関係で円高だったのと、税金の関係で10倍近い価格差があった。

  それにコンビニがそこらじゅうにあり、6本入りのパックが簡単に手に入った。値段は200円前後である。一緒にメキシコ料理からきたナッチョスのチップ(トルティアチップス)とトマトソースのベースの辛いソースを一緒に買ってきて食べた。毎晩それが夕食だった。そりゃー強くなるはずだ。日本なら大金だから飲めないが、向こうならお小遣いでも飲めるわけだ。その時、アメリカに1年弱ぐらいいたが、私の眠っていた潜在的な大酒のみのDNAに火がついたきっかけがこれだった。

  さらに悪かったのは、やがて仕事をするようになり、いっぱしの収入が入るようになったことである。こうなると誰に遠慮するでもなく自分のお金で自由に飲めるようになった。しかも当時、松下電器の本社で仕事をしていたので大阪の守口市に住んでいた。毎晩11時過ぎぐらいまで仕事をしていた。そうするとその時間まで空いているのが居酒屋みたいなところしかなかったのだ。

  私は近所にあったお好み焼き屋さんにほとんど毎日のように通った。庶民的で、きさくなおばちゃんと少し偏屈だが職人肌のおじちゃんには大変よくしてもらった。ちょうど寅さんにでてくるおいちゃん、おばちゃんといった感じだった。

  豚玉と焼きそば、あと一品料理とビールを1本、チューハイ1杯が定番だが、少し話し込んだりすると、チューハイをあと2、3杯飲んでいただろうか?とにかく他にまともな店がなかったので、この店が私の命綱であり、生命線だった。

 これが独身時代だった。仕事に夢中で楽しく面白い酒だった。

 その後、結婚し、自分で今の事務所を開き、経営の厳しさや仕事の奥深さ、人生の悲哀もそのとき味わった。一人で飲む酒も前よりも増えた。悲しい酒も増えた。そんなときも酒は身分にも関係もなく、金のあるなしも関係なしに慰めてもくれたし、苦しさも紛らわせてくれた。美空ひばりの「悲しい酒」を聞いても味わえるようにもなった。

 なんかこんな話をしていると、どんどんと話が演歌くさくなっていけないが、しかし、人生の裏も表も、喜びも悲しみも、時には名演出家として、あるいは地獄に誘う悪魔でもありいつも一緒にお酒がいた気がする。

 かつて禁酒法なる悪法がアメリカであったそうである。アルカポネかなんかのギャングがアングラで酒を横流しし大金を稼いだそうだが、人間の本能はそんな理屈で割り切れるほど簡単じゃない。どんなに立派な社会になっても、やはりお酒はなくならないだろうな。

 ただ、今回断酒宣言をして、ちょっと悲しいことがひとつある。お祝いのお酒であり、友と酌み交わす友情の酒である。これは何物にも変えがたい喜びだった気がする。まあ、私の場合は水でも十分喜びは感じれるからいいのかも知れないが。

 なにせ、私は「ビール以外は一切酔わない」という父の息子である。水でもアルコールでも、大して酔わないので、にたようなものである。とにかく今振り返るとお酒は懐かしくもいい思い出だった。

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2007年7月17日 (火)

【断酒】私が酒をやめた三つの理由

 さて皆さん、緊急記者会見で私が断酒宣言をしたブログ(7月9日、7月10日付け掲載記事参照)読んでいただけましたか?  ちょっと趣向を凝らして記者会見風にまとめてみましたがどうだったでしょうね。  しばらく、この断酒にまつわるお話をシリーズで続けようかと思っていますのでよろしくお願い致します。

 先のブログ上での、緊急会見で私の今回の断酒についての大まかな所はお話しました。  ところが一つ掘り下げてお話していないテーマがあります。

  それは、『お酒を止める前は随分考えた』と書いたんですが、何をどのように、どの程度考えたのかということについて深くお話しておりませんでした。今日は特にこの点についてお話しましょう。

  皆さんもご想像ください。私の家はだいだい酒飲みの家系です。特に父方のほうは大変な大酒のみが多く私だけにとどまらず、おじさん、おばさん、親戚一同がよく飲む人ばかりです。ですからDNAの影響は怖いもので、私も気づけば同じ範疇にいたわけです。

 本格的に飲み始めたのは大学に入ってからです(当然ですが)。以来20年以上飲んできたわけですから、簡単にやめられるわけがありません。以前にも何度か医者から注意されて、断酒しようと思って始めましたが、正直長続きはしませんでした。人間というものはホトホト意志の弱いものです。

  それが今回は違います。以前のようなことがないように、とりあえずきちんとやめられる目処が立つまでは皆さんにお話しませんでした。それから、誰かから止めろといわれてやめるのではなく、自分自身の意思でやめるとはっきりと得心してから、断酒をはじめました。それで、ちょうど2ヶ月です。

  その決心に至るまで色々と考えました。そして大きく3つの理由で決断しようと心に決めました。それは以下の3つです。

  (1)自らの健康を考えて
  (2)家族の心配を考えて
  (3)新たな人生の生き方を考えて

以下それぞれどんなことを考えたかお話しましょう。

(1)自らの健康を考えて

  これは先にお話したように、糖尿の影響で嘔吐がひどくなったわけです。それまでに体重を減らし食事に気をつけかなり気にはしていましたが、いよいよ最後の切り札が断酒ということになりました。糖尿の治療のご経験がある方はご存知でしょう。食事の制限は一日1400〜1600Kcalと大変厳しいものです。正直大変おなかが減ります。

  私の場合、食事だけを考えた場合、大体この範疇で収まっていました。勿論時には温泉にいったりしてご馳走も食べましたが、それは前後の食事でコントロールしていました。   問題はお酒に絞られていたわけです。お酒そのもののカロリーが大きく影響していたのでしょう。

  ビール(350ml) 140kcal 、ウイスキー水割り 160kcal、 日本酒(1合) 210kcal、 ワイン(100ml) 75kcal、 (数値は目安です)と一般に言われます。

  ちなみにご飯一杯が80Kcalで栄養学では1単位といって基準になります。ウィスキーが特に好きだった私の場合、1杯飲むだけでご飯2杯分です。当然何杯も飲むわけですから、まあ、正直これだけで一日分の食事のカロリー数などすぐにオーバーしてしまいます。さらに、酒飲みの人は分かるでしょうが、必ずおつまみを一緒に食べます。これがまたカロリーの多いもののオンパレードですよね。

  植木等さんじゃありませんが、「これじゃ体にいいわけないよ。」なわけですよ。自分で言っていておかしなものですが、頭で分かっていてもやめられませんね。今じゃ寛仁親王殿下がみずからアルコール依存症だと勇気を持って公式にされました。一昔前なら皇室の方がアルコール依存などというのははばかられましたが、今は時代が変わったのでしょうね。

  話がずれてしまいましたが、そいうことで、私も糖尿のことを考えるとまずは食事制限でカロリーコントロールが必要で、それにはお酒をやめるというのが一番の方法でした。


(2)家族の心配を考えて

  私は元来わがままでわが道を行く、そういう人でした。裏を返せば滅多なことで他人の言うことを聞かないという短所があります。いい意味で言えば自信を持って信念を貫くということになるのでしょうが、仕事と違って、体のことになると自分だけのことではありません。当然家族が色々と心配します。

 そんなことは百も承知の上で、それでもめちゃくちゃやっていたわけです。(おはずかしいことですが)。ただ今回ばかりは妻の一言が効きました。

  「あなたね、このままの状態だと大好きなお仕事で穴でもあけて、お客様にご迷惑をおかけして、二度と仕事の依頼が来なくなるわよ。そうしたら今まで苦労したことは一切無駄になるのよ。それでもいいの。」と。

  正直この言葉には参りましたね。いつもは自分の都合ばかり押し付けたりする発言でしたが今回の言い方は違いました。確かに私自身にとって一番痛いところをつかれました。妻の言うとおり今まで何をやっていたのかわからなくなってしまう。そして自分の志を貫こうにも足元から土台が壊れてしまう、その通りなのです。

  妻にとっては何気ない一言でしたでしょう。しかし、この一言は断酒の決断を深めさせました。ですから、妻のその一言でまあ、自分なりに気づいた。そして考えた。その一言がいい触媒になったということです。

  勿論、酒をやめたと言ったときの家族の反応は複雑でしたね。「あーーーー、よかった」という反面、「本当に長続きするんだろうか?」という疑いと疑問の目とでもいいましょうか???まあ、今まで散々勝手をやってきた「前科もの」(笑い)の発言なんでしょうがありませんが。。。。しかし、2ヶ月たって今は家族も穏やかですので、よかったのではないかとお思いますが。

(3)新たな人生の生き方を考えて

  実は私が断酒を決断する数ヶ月前でした。私の10年来の親友が断酒を宣言しました。彼は私以上に酒豪でした。彼の親父さんは大阪でも有名な大きな企業を経営していて、彼はそこの副社長として経営者の修行をしている立場の人間です。彼は仕事上の接待などで、よくミナミなどの高級なクラブなどに常連として行っていました。とにかくよく飲みました。

  そんな彼が突然酒をやめたといいだしまた。ただし、お酒の席には必ずウーロン茶で一緒に付き合います。なぜやめたのか私も理由を聞いたのですが、はっきりとしません。余程心に期するものがあったのでしょう。

  正直私は意外でした。世の中でもっとも断酒というものから遠い存在だと思っていた彼が。。。。。。。。

   このことも大いに考えさせられたことでした。そしてこうも考えました。「私より若く、また酒も強く、しかも立場上いくらでも飲めるだけのお金がある彼のようなエグゼクティブが酒をすっぱり断つのだ。ひょっとすると断酒も悪くないな」とね。彼のこの行動は私に勇気をくれましたし、背中を後押ししてくれました。

  彼の偉いのは、単にお酒の量を減らすとかいうのでなく、きっぱりとやめてしまったこと。そして公の前でそれを宣言していること。そして最後はお酒をやめても付き合いは今までどおり続けていることです。

  彼のこの行動で、正直私は色々と考えさせられました。 実は私も今年でこの仕事を始めて20年になります。人間の人生でも20年で成人式、40年で初老(厄年)、60年で還暦として20年というのは大きな節目です。25歳でこの仕事をはじめて今年で45歳(誕生日は12月28日です)。ちょうど丸20年です。

  この際、自分自身もう一度原点に立ち帰って足元を見直し、今までの人生をリセットし、新しく生まれ変わって再出発したいと思っていた矢先でした。

  私の仕事である「改革請負人」という仕事は、単なる経営コンサルタントと違い、人を動かし、組織を動かし、社会を動かすという結果を求められます。

  ですから単に最新の理論や知識を知っているだけでなく、自らの体を張って立ち向かい現実の壁を動かしていくだけの、人間の器、人格、つまり徳を磨かねばと常から思っていました。この修行は命ある限り一生続くものだと思っています。

  それまで私も立場上、クライアントや研修生などに対して「意識を変え、行動を変え、習慣を変える。そして人生を変える。」などと言ってきました。

  偉そうに他人に言う以上私自身がまず身をもって手本を示すのが礼儀です。単に、頭の中で出直そうと言うだけでなく、形としての目で見えることで大きく変えよう。そのために断酒は大変意義あることだと考えました。

  勿論誘惑もあるし、今までの慣習もある。他人にどう説明しようか。夜ぐっすり寝られるか?などなど障害もありましたが、とりあえずやってみよう。そして始めたのが2ヶ月前でした。

  今はそれが大正解だったと思っています。人が生き方を変える、新しく生まれ変わるなどといっても簡単にできるものではありません。形から入るというのもいいことでしょう。今はそう思っています。  

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2007年7月10日 (火)

【断酒】緊急会見「私、お酒やめました」(2)

(※昨日の2007年7月9日付ブログ【断酒】緊急会見「 私、お酒やめました」(1)からの続きです。)

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【記者D】しかし大のお酒好きが止めるとなると随分悩んだでしょう?

【宇佐美】
 そらゃ私はアル中ではありませんが、三度の飯より酒が好きっていうタイプでしたから、キッパリと止めるには色々考えましたよ。決断するまではね。

【記者A】ところでメタボリックで困っている人にとったら、宇佐美さんの話しは他人事ではないですよね。今までに何かそういった関連の質問をされたことは?

【宇佐美】
 そうですね、一つ非常に興味深かったのは、我々と同じ年代の40歳台半ばかそれ以上の人たちだと、特にメタボを気にする人が多くて、何か自分のことのように質問されてくる方も多いんですよ。

 この間もあるお酒好きの知り合いがこう聞いてくるんですね。『宇佐美さん、なにも完全にお酒をやめなくても、量を減らせばいいんじゃないですか?』と。それも必死の形相でね。

【記者A】そらゃ聞く方も必死ですね!

【宇佐美】
 そうなんですよね。後で聞けばこのかた御自身も医者や家族からお酒を止めるように強く言われていたそうです。

【記者A】それで何てこたえたんですか?

【宇佐美】
 酒飲みの気持ちが人一倍分かるだけに、私はきっぱりと、これに対してこう答えました。

 飲む量をコントロール出来る意志の強い人はいいですが、どう考えても私には出来ませんでした。節酒は以前に何度もやってみましたが長続きしませんでした。

 一杯飲めばあと一杯だけ。あと一杯飲めばもう一杯だけ。気付けば普段と変わりなく飲んでしまっている。だったらなにも考えず気分良く飲んだ方がいいということになってしまうんですよ。

【記者B】つまり節酒出来る意志の強さがなかったと?

【宇佐美】そうです。でも考えても下さいよ。私みたいに、お酒が好きな方で、かつ強い人、またお酒の魔力も十分知っている方の中で、本当に節酒に成功した人がいるなら是非ともお目にかかりたいですね。それほど難しいことだと思いますよ。

【記者B】そのあとはなんとはなしたのですか?

【宇佐美】
 結局、私は節酒もあるいは一時的にやめる禁酒も出来ない意志の弱い酒好きの人間だった。だから断酒して一切飲まないようにしようと思った、とね。

【記者B】それで質問した人は納得したんですか?

【宇佐美】結局、お酒をやめるという結論には納得出来なかったようでしたね。

【記者C】それからどうしました?

【宇佐美】こんな例え話をしましたね。ある時、薄毛を気にして、育毛剤やカツラを真剣に考えた人がいたそうです。しかし、あまりにも効果は薄いし、あれこれ悩むくらいならいっそのことスキンヘアにしてしまえということで、本当にそうしてしまったら、案外すっきりしたと。(笑) 今回の私の断酒もこの発想に近いかもしれませんね(笑い)説明になってませんか、はっはっはっ。

【司会者】皆さん色々ありがとうございました。そろそろお時間が参ったようです。以上で会見の方は終了させていただきたいと思います。

 なお、『お酒をやめて数値はどのぐらい下がったのか?』などもっと詳しいお話はこの後のブログに宇佐美本人がシリーズで載せていくと申しております。引き続きお引き立てのほど、よろしくお願いいたします。みなさん、本日はありがとうございました。

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2007年7月 9日 (月)

【断酒】緊急会見「 私、お酒やめました」(1)

(記者会見場。多くの報道陣を前にして、きちっとスーツを着込み緊張した面持ちの宇佐美。浴びせられる無数のシャッター。ハンカチで汗ばむ額の汗をぬぐう。司会者の挨拶が始まる。その後、司会者の目配せによる合図でおもむろに宇佐美は会見を始めた。)

【司会者】それではただ今より会見を執り行います。それではまず宇佐美の方から報告したします。

【宇佐美】
 えー、皆さん本日はお忙しい中お集まり頂き有難うございます。突然ですが皆さんに重大なお知らせがあります。(緊張して少し声もうわずる)

 プライベートなことで恐縮ですが私儀、宇佐美泰一郎(株式会社ニューポート代表取締役)は、健康上の理由で、さる2007年5月5日をもちまして大好きだったお酒をピタリとやめました。

 ご存じのように何分あれほどのお酒好きの私でしたので、突然の断酒宣言に驚かれた方も多いかと思いますがこれは事実であります。

 5月の初めに止めてから丁度2ヶ月になります。今日まで発表を差し控えさせて頂きましたのは、私またいつもの意志の弱さからいつ誘惑に負けてしまうかも知れませんでしたので、ある程度続けられるという自信が出来たタイミングを見ておりました。

 皆さんの中には、今まで失礼して私が酔って絡んでご迷惑をお掛けした方々も多いかと思います。若気の至りとはいえ、この場をお借りして深くお詫び申し上げます。

【記者A】一つ質問よろしいですか?

【司会者】はい。それではお一人1つづつ順番にお願いします。

【記者A】それでは質問しますが、仕事柄付き合いで飲まれるとおもいますが、その辺はどうなんですか?

【宇佐美】
 最初からいい質問ですね。正直最初はどうしようかとおもいましたが、今まで通り変わりません。ですから皆さんご安心下さい。私お酒を止めても烏龍茶でお付き合いさせていただきます。ですから、またどんどんとお酒の席には誘ってください。(笑)

【記者A】しかし一人シラフなわけですよね。違和感はありませんか?

【宇佐美】
 それがですね、不思議なことに、お酒を止めてから今までこの2ヶ月の間に何度もお客さんと酒席に参りましたが、私一人飲んでいなくても特に違和感はなかったですね。

 いやむしろ、お酒は飲んでいなくても、お水や烏龍茶で水分はたくさん取りますからね。雰囲気は飲んでるときと大して変わりません。飲まなくても私テンションはもともと高いですしね。((爆笑))

【記者B】宇佐美さん、知る人ぞ知る大酒のみで名前が通っていたと思うんですが、皆さんの反応はどうでしたか?

【宇佐美】 それがですね。おもしろいんですよ、これが。今まで何人かの方々には『私お酒止めたんだ。』とお話ししたんですね。そうすると決まって判子で押したように同じリアクションが返ってくるんですよね。

 『えぇっー!宇佐美さん、うそでしょ。どうして?なにかあったんですか??そんなにお身体悪いんですか?』とね。

 まぁ皆さん心配してくださるのは分かるんですが、同じ質問ばかりされるんですね。

【記者B】それじゃ一々質問に答えるのもたいへんでしょう!?

【宇佐美】はい。おっしゃるとおりです。ですから、まぁこうしてブログ上ではありますが、今回ご無理を言いまして、お忙しい中皆さんにお集まり頂き会見を開かせていただいたいたと言うわけです。

【記者C】先程健康上の理由でお止めになったと言うことでしたが、具体的にはいかがなんですか?

【宇佐美】 確かに会見の冒頭に、『健康上の理由で』ともうしましたが、それほどご心配頂くほどではないのでご安心下さい。

 実は今回お酒を止めた直接の理由というのが、ちょうど一年くらい前から原因不明の嘔吐をくりかえしていたんですね。

 それが普通に吐くのと違いまして、特に飲みすぎや食べ過ぎのような感じじゃなくて吐くんです。特に胃の中に何もない状態なのに、お茶やコーヒーなど飲んだ水分をこう何度も繰り返し繰り返し吐くんです。ひどいときはそれが一晩中続くんですよ。すごい苦しかったですね。

【記者C】それで医者には行かれたんですか?

【宇佐美】はい。近所のかかりつけの医師のところにいきました。

【記者C】診断の結果はなんと?

【宇佐美】はい。多分糖尿の影響だろうってことでした。その時は吐き気を止めるため点滴を打ってもらい薬をもらって飲んですぐになおったんですね。

 しかし先生は、根本的に糖尿を治さないと駄目だと言われるので、『ならばお酒を止めるしかない』と思い決断しました。まぁ、これが直接の理由です。

(※ 途中ですが続きは、明日2007年7月10日(火)付『【断酒】緊急会見「 私、お酒やめました」(2)』に続きます)

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2007年7月 6日 (金)

【流行】新・不易流行学〜現代を救う新たな処方箋〜

 さて本日は流行についてもう一歩深堀をしてその本質に迫りたい。

 松尾芭蕉が俳諧の用語として使った言葉『不易流行』という言葉がある。『奥の細道』の旅の中で羽黒山で僧侶と会ったのをきっかけに体得したといわれる概念だ。

 その大本は荘子の思想や易の三義と呼ばれるものがベースにあったが、芭蕉なりに禅の発想で解釈を深めたものだ。

 芭蕉はご存じのように、それまでの五・七・五・七・七の短歌を代表とする和歌の世界に対し、もともと庶民が気軽に楽しんでいた、五・七・五の『俳句』を芸術の域にまで高めた俳聖と呼ばれるひとだ。

 言ってみれば既成の世界に殴り込みをかけ、新しい世界を自らの手で作り上げた革命家と呼んでもいい人だ。

 最近一般によく使われるようになった、この不易流行という言葉だが、革命家が使った言葉だとして理解すると面白い。

 広辞苑の解釈は「不易とは、詩的な生命の、基本的に永遠性を有する本体である」とあり、「流行とは、詩における流転の相で、その時々の新風の体である」とある。

 さらに、この不易と流行の二体は、「共に風雅の域から出るものであるから、根本においては一に帰すべきものであるという」とある。(ここでいう風雅とは俳句の世界を指している。)

 はっきり言ってなんのことか分からないだろう。芭蕉が言いたかったことの具体的な事例を示そう。

 ある人が作った俳句に対する芭蕉の評価である。

小松生ひ
 なでしこ咲る
   いわほかな
     (守武 作)

<巌には小さな松がはえているのみか、撫子までも咲いている。その風情のよさ>(解釈―復本一郎氏)

この句を芭蕉は高く評価している。景色だけを表現したものはもう古い。本来生物など生えるはずもない岩に松が生えている。そればかりか艶やかな撫子までが咲くという生命力のすごさであり、自然の美しさの奥の深いことだ。

 無骨な巖と松という男性的な荒々しさに『大和撫子』と例えられるの撫子の女性らしいコントラスト。しかも常識では考えられない場所に咲いている自然の驚異の生命力。

 芭蕉は景色を詠むという形式だけではない、そこに本質を見い出したわけである。しかし、一方で和歌ではなかった新しい形にもこだわっているのだ。

 芭蕉はこう解説してくれる。「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」即ち「不変の真理を知らなければ基礎が確立せず、変化を知らなければ新たな進展がない」、しかも「その本は一つなり」即ち「両者の根本は一つ」であると。

 俳句は五七五という形だけでなく和歌の世界でタブーだったこともドラスティックに変えてしまった。特に短い文章の中で庶民でも分かりやすい力強い言葉で、シンプルで且つストレートな表現という、和歌とは違う形の変化を次々と追っていった。

 しかし一方で形に囚われないことで、従来の和歌では表現できなかった自然美や躍動感をよりリアルに
如実に表現することが出来た。

 きっと芭蕉はこう言いたかったに違いない。『だから不易も流行も元は一つなんだ。いかに本質を表現できるか、いかに伝える力を持つかが大事なんだ。古くからの形に囚われる奴がおかしいんだ。

 形に囚われるな。本質にこだわるんだ。本質にこだわり続ける限り、常に一番いい形を追求し続けろ。変えること、変わることは決して軽薄なことじゃない。

 形に囚われるやつほど形骸化して、進歩が止まり命がよどんでくる。それこそ魂の怠慢だ。

 変えろ、変えろ、変え続けろ。君に本質を追い続ける勇気と執念があるなら、改革をためらっちゃならない。』と。

 ここからは私の想像だが、おそらく彼は非常にピュアな人だったに違いない。周囲の人の目や上辺の評価を云々するような生き方を拒絶し、天を向き天に気に入られる本質を追求し続けた。だから形を変えることを躊躇せず、形に囚われることを由しとしなかったのだ。

 (ここからが肝心なところだが)ではひるがえって現代の流行はどうだろう。新しいことばかりを追い求め、周りの目を気にし、結果としての数字ばかりに終始した。

 結果は芭蕉がもっとも嫌った、形の新しさという上辺ばかり追い、本質や実態・実物・実体験を忘れた
、魂の怠慢という蟻地獄で苦しんでいるのではないか?

私はこの芭蕉の追求した真の意味での『不易流行』の言葉の奥底に現代の我々に対する処方箋があると信じる。

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2007年7月 5日 (木)

【流行】ウィンナーワルツと本物の流行とは?

今の日本に流行創出力がなくなったのではないか?それは流行を創出するメカニズムがコピー&ペースト文化とかわり、上辺の話題だけが流通するためだとのべた。

 結果として、価値のある実態を離れ記号としての流行が驚異的なハイスピードで一人歩きしだした。また流行の流通速度に人間の創造力がついていけていないのでは?とものべた。

 では究極の流行、本物の流行とはなんだろうか?何がそれを生み出す要因なのか?について今日は考えてみたい。

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 流行について考えるとき私は必ずいつも思い浮かべるものがある。それは、ウィンナー・ワルツだ。

毎年、お正月を向かえると開かれるウィーン・フィルのニューイヤーコンサート。金色の格調高い優雅な会場(ウィーン楽友協会の大ホール)でヨーロッパ中の貴族が集まり、音楽に酔いしれる祭典。

 NHKが放送しているので楽しみにされている人々も多いだろう。特に2002年は小沢征爾が指揮を務め一気に親しみが増した。

 私も小学校の時にカラヤンのレコード全集を買ってもらってからのクラシック音楽のファンなので小沢征爾指揮のものはDVDを何度も聞いた。

美しき青きドナウやシャンペンポルカ、ラデッキー行進曲などヨハン・シュトラウス親子のウィンナーワルツの名曲があでやかに奏でられる。

 1939年12月31日にクレメンス・クラウスの指揮により初めて開催され70年近い歴史を持つ。2大交響楽団として、世界中の人気をベルリン・フィルと二分するこの楽団。カラヤン、メータなど名だたる指揮者が指揮をとったコンサート。

誰が考えても流行とは正反対のクラシックや権威や伝統の権化みたいな存在だ。

しかし、このいかめしいコンサートの大元のウィンナー・ワルツがこの世に初めて現れたとき、今では想像も出来ないほどの『大流行』によって登場したことをご存じだろうか?

もともとアルプスのチロル地方に古くから伝わる民族舞踊「レントラー」の一種がやがて1750年以後から宮廷音楽に入り込む。特にフランス革命後の異様な興奮の中でダンス熱が時代を狂わし、若者たちを狂わせた。

 やがてハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンとなども多くの舞曲を作曲。この流れが音楽の都ウィーンに流入。それまでの古典派音楽のメヌエットなどを凌駕した。

 1814から1815年にかけて行われた、フランス革命、ナポレオン戦争後の世界秩序を話し合うためのウィーン会議。一説によれば、ヨーロッパ各国の国王や皇帝らが一同に会したが、肝心の会議はそっちのけで、毎晩会議の合間には舞踏晩餐会が催されウィンナー・ワルツに熱狂し酔しれたそうだ。

 有名な言葉で「会議は踊る、されど進まず」。まさに文字通りでウィンナー・ワルツは踊る。しかし一向に会議は進まなかったわけだ。

それまで封建的な価値観に縛り付けられていた人々にとって、フランス革命後の自由な空気と、男女が体をひっつけて踊るウィンナー・ワルツがまさにマッチしたのだろう。心にたまっていたガスに火を付け、大爆発したのだ。

これは日本の幕末に大流行した『ええじゃないか』にそっくりだ。お伊勢詣りをするため、方々で『ええじゃないか』と歌い踊りながら、伊勢を目指すムーブメントだ。当時の大衆を熱狂させた。

 このウィンナー・ワルツと『ええじゃないか』ともに共通する点がある。ともに閉塞した時代が終わり新しい時代が始まる。それまでの型苦しさから、自由の息吹を感じとる。これは若者ならずとも世代を越えて大衆の心をわし掴みにしたわけだ。

しかし当時の伝統を重んじる石頭の老紳士たちはさぞ苦々しく思ったことだろう。『最近の若い連中は実にけしからん。男女がみだらに体をひっつけ、ワルツという伝統を無視したいかがわしい音楽に熱狂しおって。』と。

しかしそのウィンナー・ワルツがおよそ200年の時を越えて、ヨーロッパを代表するクラシックで伝統的な価値の一等になったのだ。まさに笑いが止まらないとはこのことだ。流行と言えば、これほどすごい流行もあるまい。

ではこの究極の流行を産み出したものは何か?作り手だろうか?流行の消費者である大衆だろうか?

ここで大事なものは、時代である。時代の胎動や変化が新しいものを生み出す原動力となる。時代の鼓動をとらまえないと真に流行の覇者とはなれないのだろう。

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2007年7月 4日 (水)

【流行】コピー& ペースト文化の大罪

 私はコピー&ペースト文化という全く新しい流行の創出システムが、逆に流行を生み出す力を無くしてしまったのではないか、とのべた。

 そもそも私は流行には本来二通りの意味があると思う。一つはテレビやマスコミ、ネットなどで話題となり多くの人に情報として流通すること。

 そしてもう一つは、流行するもの、それそのものに単なる話題を越えた実態としての価値があることだ。

 例えば流行するものそのものが、新規性、有用性、独創性、国際性、技術力、経済性などの価値をもつものだ。

 そして後者の、実態として価値をもったものの中から、流行が社会に浸透し、定着し、やがて文化になっていくものが現れる。ビートルズ、ジーンズ、ハンバーガー、最近では携帯電話などなどだ。

 最初世の中に出てきたときは若者を中心に熱狂的なブームを巻き起す。やがてそれが世代を越えて、時代をとらえ、広く大衆の心をとらえ、やがて文化になっていった。

 ウィキペディア(Wikipedia『流行』より)では、こう述べている。『急激に普及し、あっという間に消えてしまう流行を、ファットと呼ぶ。(例:たまごっち)いっぽうで、長期にわたり流行し、その社会に定着する流行を、ファッションと呼ぶ。』

 今日の流行とは実はファッションにもファットにすらなり得ないものが多いのではないかと感じている。

 むしろ単なるフロー(flow)であり、実態的価値がともなわないもの。情報の流通過程で、ただ消費されて終わってしまうものばかりに感じるのは私だけではあるまい。

 これはマスコミの形にも大いに関係していると言える。今の時代はインターネットだけでない。テレビも地上波だけでなく、BS、CS、CATVなどなど極めて多様化している。

 テレビの番組もニュース番組かワイドショーか分からないものが増えている。新聞もまともな日刊紙だけでなく、派手な見出しのスポーツ各紙も相変わらずタブロイド版の夕刊紙も元気だ。

 雑誌にしても極めて多様化していて本当に読む人がいるのか思わず心配してしまうくらいだ。

 ここで大事なことは彼らにとってニュースとして価値があるとかということの前にやっかいな問題が存在するという事実だ。

 すなわち彼らも商売として飯を食わねばならない。だとすれば紙面や番組に穴をあけるわけにはいかない。内容はともかく、まずは枠を埋めることが第一であり、そんな中でストレスをためながら時間に追いまくられているのだろう。

 かつては一つの話題でも情報が流通していくプロセスのリードタイムが長かった。要は時間が稼げた。この間で手を変え品を変えて、演出をこらして、間がもった。しかし、今ではそれが一瞬である。

 料理を作る料理人に例えるならば、作った端からすぐ次の料理はないのかと催促が始まるようなものだ。
 料理をする側も必死だ。材料を吟味し、集め、趣向を凝らしてどこにもないものを作りたくても、そんな時間は与えられていない。それほど人間が何か(特に名作と呼ばれるもの)を生み出すためには莫大な時間がかかる。

 しかし食べる方はどこまでもワガママだ。気が付けば、前よりも刺激の強いものをと、要求がどんどんと厳しくなる。

 大衆は常に新しい『刺激』を求めると同時に『飽き』も早い。結果として、話題やブームが作り出され瞬くままに消費されていく。今は情報の伝達スピードがあまりにも早いため、作り手はその速度についていけてない。

 問題は、流行という情報が流通し消費されていく時間が極端に短くなってしまったということだ。その速度のアップに人間の創造力のスピードがついていっていない。

 一つヒットさせても、すぐ次のヒットを要求される。休む暇もない。結果、どんどんと創造の意欲もそがれ何かを産み出そうという若い情熱も冷えてしまったとしたらどうだろうか?

 しかし、一方で視聴率だのなんのと言われれば、手っ取り早い方法がいい。いや、それしかしかたない。このことがコピー&ペースト文化を生む根深い背景だろう。

 そして結果として、消費者も、上辺だけの同じようなコピー&ペースト情報に飽きたらなくなってくる。
 そして求める刺激がエスカレートし、ブログやリーク話のような、一般には流通していないものでも、実態がともなっているものほうがリアルで面白いと感じるようになってきた。

 フランスの小説家ロマン・ロランは流行についてこう語っている。『流行はつねに前進していく。そして、精神の偽りの自由が絶えずせり上がっていく。 ほとんど誰もそれに抵抗しようとはしない。』

 ロランのいう流行はそこに作り手の情熱や伝える人間の使命感があったからこそ成り立つ話だ。

 そこに文化として定着し新たな価値を生む、時代を引っ張る原動力があるからこそ、人々はその軽薄さやいかがわしさにも寛大となり流行を受け入れたのだ。

 しかし今日、もしコピー&ペースト文化がそれを根底から変えたとしたら、我々の創造性や情熱はどのように発揮すべきなのだろうか?

 また大問題を抱えてしまったようだ。

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2007年7月 3日 (火)

【流行】流行が生まれる仕組みが変わった!

 前回は秋葉原での視察で町の活力がかつてほどなくなったという話。ベストヒットの商品番付から、何か日本は流行を生み出す力がなくなったのではないか?という話をした。

 いずれも私が感じた印象に基づいて書かせていただいたので、少し違うぞという方もおられたかもしれない。

 さて、なぜ私が『日本人の流行創造力がなくなった』と感じたのか?

 個人的な話だが、私は真面目なのか古い人間なのか、ブログに書いて皆さんにお話する以上、そこに明確な分析なり、理由がなければならないと思う。

 そこでここ数日ブログを書く手を止め、このテーマをじっくり考えた。ブログとはただ書けばいいのではない。そこに必死に考えるというプロセスが加わる。これがまた意味があるのだろう。
 
 さて正直言ってこの問いは難問だった。主観的な印象に理屈づけするのは至難だからだ。とはいえ色々考えた結論が出た。答えはこうだ。

 私の個人的な見方だが日本は今『コピー&ペースト文化』なるものに犯され、流行を創造する力がなくなったのではないかという仮説だ。

 コピー&ペースト文化ってなんだ?ご承知のようにパソコンなどの世界であるものをコピーして別の所に張り付けるというあれである。

 例えば雑誌の記事を書いているとして、ネットで参考になりそうな言葉なりデータがあると、それをコピーして、自分の記事に張り込む、つまりペーストする非常に便利な機能だ。このお陰で図書館通いして、一次データを苦労して調べる必要が一切なくなった。

 作家ならば空いた時間をよりいい作品を生み出す時間にまわせばいいわけだ。一面では知的作業の革新だが、反面手抜きになったり、著しく独創性にかけたりするデメリットもある。

 しかも、ネット社会になって情報の伝達スピードが異常に速くなったことがさらに拍車をかけている。

 ある人がちょっとしたネタを生み出すと、次の人はそれに少しだけ手を加え、コピー&ペーストし、情報を発信する。次の人、また次の人も同じことを繰り返す。

 これがコピー&ペースト文化だ。この文化の最大の特徴は、やっている渦中の人たちは決して盗作などしていないし、必ず著作権は触れないでいるつもりなのだが、離れた立場で客観的に見ている人間には皆同じに見えてしまうということだ。

 例えばテレビがいまそうだ。朝ズバッでみのもん太がいったことが、フジの小倉さんが特ダネでコピー&ペースト。違う局も似たような番組でコピー&ペースト。11時台でもピンポンはあるし、関西などは午後2時から6時前までは、このコピー&ペースト番組が続き、夜も古舘さんから始まってコピー&ペーストが続く。

 ひどいのはコメンテーターだ。朝出ている人が昼も夜も違う番組に出ていて、ちょっとだけ言い方を変えてコピー&ペーストしている。

 私はこのコピー&ペースト文化が、今の中身のともなわない上辺だけの『流行』を生み出し増幅させ普及させているメカニズムだと思っている。

 かつては情報が流通する過程で必ず体験や見聞を通じて、その価値を吟味し評価をしながら、広がったものだ。

 つまり情報という記号だけが一人歩きするのではなく、必ず実態そのものにに触れ、頭で必死に考えて評価したものだ。だが今はそれがなくなった。

 ランドマークも電子マネーなどヒット商品番付に載っているものは皆、マスコミで取り上げられ話題十分だ。しかし実際に現地に行ってみたり、体験し、使ってみてその良さや価値を実感した人がどれだけいただろうか?

 私は流行という新しい価値や情報の創出から始まって、それを受け取ったものが吟味し評価し、さらに伝達されると昔ながらの、『流行創出メカニズム』がコピー&ペースト文化によって、全く変わってしまったと思うのだ。

 つまり日本自身のオリジナリティーや独創性、創造性自体は大きく変わってなくても、『流行創出メカニズム』がコピー&ペースト文化によって、全く変わってしまった結果、流行が薄っぺらな話題性だけのものに席巻されてしまったとしか思えないのだ。

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