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2007年7月18日 (水)

【断酒】我が友、お酒との思い出

  さて今まで断酒について色々とお話した。しかし、皆さんにお断りしておきたいのは決してお酒が嫌いになって、断ったわけでもなんでもないということだ。正直言えば、今でも当然大好きだし、お酒の魅力もまた悪い点もよく知っているつもりだ。

  言い方が悪いかもしれないが、あえて誤解を覚悟でいうならば、「酒は長年連れ添って、わけあって分かれた愛人であり、いまでも好きな人。ちょっぴりわがままだけど甘え上手で魅惑的な小悪魔的ないい女」という感じだろうか?演歌の世界になってきたぞ。(笑い)

  というわけで、今日は皆さんにお許しいただいて、この愛人、いや違ったお酒との思い出を語りたい。「何を分かれた女に未練がましいわね」と怒られそうだが、しかし思い出はいつまでも断ち難く、ブログに書いて多少とも記憶に残したいのである。

  さて先に書いたとおり、私の一族は大酒のみである。特に父方は大変に強い。昔から子供ころよく聴かされた話がある。父の母親(つまり私の祖母)の実家というのが、名古屋で銘木店を経営していたそうである。そこの創業者であったひいじいいさんというのが、たいした商売人で体が太っていて、めっぽう酒に強かったということだそうだ。

 銘木店というのは、大きな山の中に入っていって、何十年もあとに立派な材木に育つだろう杉の木などを先を見越して買い付ける仕事だそうである。つまり、先を見る先見性がないとできない商売である。私の体の中にもそういう血が入っているのかもしれない。

 さて思い起こすとこの宇佐美家(つまり父方の一族)というのが大変な酒好きで、また宴会好きでもあった。父の兄弟は男5人、女2人という昔の典型的な大家族であり、当時同族で会社経営をしていたこともあり、よく祖父の家に集まっては宴会を繰り広げていた。

 単にお酒を飲んで騒ぐだけでなく、芸達者が多く、小唄、長唄、どどいつ、踊り、日本舞踊などなど何でもござれのような感じで大変な宴会だった。今でもカラオケで集まると、全員がプロなみの腕前で見ている人間は正直舌を巻くのである。一度カラオケの様子をビデオで取ったものがあったので、知人に見せたが正直言ってひっくり返っておどろいていた。

 「なんだこの一族は!!!!全員芸人だにゃーこれは。」と。同感である。

  このにぎやかな家系の中にあって、やはり父も酒は強い。子供のころから、毎晩晩酌は当たり前だった。しかし、なぜかビールしか飲まない人なのだ。理由がまた面白い。「不思議なことだが、ワシはビール以外のお酒を飲んでも酔わないんだ。どんなに飲んでも酔わない。しかしビールだけは1本程度で酔うことができる。その方が経済的にも体にもいいので、毎晩風呂上りにビール1本必ず飲むことにしてる。」と、これは本人がよく言っている言葉である。

 これが私の大酒のみのルーツである。カエルの子はカエル。やはり血は争えない。

 その後、私は故郷、名古屋を後にし、早稲田大学に進学し、本格的に酒の味を覚えることになる。ご存知のように、いまや斎藤祐樹くんで有名な母校は大隈重信公が創設以来、バンカラで知られ、酒はきっても切れない存在だ。私のときもそうだった。

 一年生でサークルに入り、まずは新入生歓迎コンパ(シンカンコンパ)だ。とにかく手荒い歓待なのだ。私のときはまず洗面器がもってこられビール5本くらい一気にそそがれる。それを一気飲みさせられるわけだ。また、悪いことに私が入学した年は、ちょうどチューハイが始めて流行した年で、かなりアルコールが強いのに一気飲みがはやって、足をとられて倒れる連中が多数出た。

 さらに早稲田大学が創立記念100周年の年で野球だけでなく、とにかく様々な競技で優勝優勝の騒ぎで、当時新宿の歌舞伎町のコマ劇場前の噴水広場では、全員が池に入り全身水浸しで、連日校歌である「都の西北」を歌い、同じ大学というだけで、見ず知らずの人間と肩を組んで、騒ぎまわるというドンちゃん騒ぎだった。

 というわけで、まずはサークルで始めて本格的に飲み始めた。なにしろ「吐くぐらいなんだ。人間吐きながら酒は覚えるものだ」という筋金入りの先輩たちに薫陶を受けた。

 しかし、普段はお金がない貧乏学生だったこともあり、飲みたくてもそんなに飲めなかった。同じ名古屋出身の親友がいたが、時折彼の下宿へ泊りがけで遊びに行ったときに
お互いにお金を出して買って分け合って飲んだ、1リットルの缶ビールの味が今でも懐かしい。

 その後、実際に私が本格的に酒が強くなったなあと思うのは、政経塾時代にアメリカに留学したときのことだ。当時下宿させてもらっていた家で、毎晩のようにビールを飲むようになった。当時日本で買うと、350mlの缶ビールが300円くらいした時期に、アメリカでは30〜40円だった。為替の関係で円高だったのと、税金の関係で10倍近い価格差があった。

  それにコンビニがそこらじゅうにあり、6本入りのパックが簡単に手に入った。値段は200円前後である。一緒にメキシコ料理からきたナッチョスのチップ(トルティアチップス)とトマトソースのベースの辛いソースを一緒に買ってきて食べた。毎晩それが夕食だった。そりゃー強くなるはずだ。日本なら大金だから飲めないが、向こうならお小遣いでも飲めるわけだ。その時、アメリカに1年弱ぐらいいたが、私の眠っていた潜在的な大酒のみのDNAに火がついたきっかけがこれだった。

  さらに悪かったのは、やがて仕事をするようになり、いっぱしの収入が入るようになったことである。こうなると誰に遠慮するでもなく自分のお金で自由に飲めるようになった。しかも当時、松下電器の本社で仕事をしていたので大阪の守口市に住んでいた。毎晩11時過ぎぐらいまで仕事をしていた。そうするとその時間まで空いているのが居酒屋みたいなところしかなかったのだ。

  私は近所にあったお好み焼き屋さんにほとんど毎日のように通った。庶民的で、きさくなおばちゃんと少し偏屈だが職人肌のおじちゃんには大変よくしてもらった。ちょうど寅さんにでてくるおいちゃん、おばちゃんといった感じだった。

  豚玉と焼きそば、あと一品料理とビールを1本、チューハイ1杯が定番だが、少し話し込んだりすると、チューハイをあと2、3杯飲んでいただろうか?とにかく他にまともな店がなかったので、この店が私の命綱であり、生命線だった。

 これが独身時代だった。仕事に夢中で楽しく面白い酒だった。

 その後、結婚し、自分で今の事務所を開き、経営の厳しさや仕事の奥深さ、人生の悲哀もそのとき味わった。一人で飲む酒も前よりも増えた。悲しい酒も増えた。そんなときも酒は身分にも関係もなく、金のあるなしも関係なしに慰めてもくれたし、苦しさも紛らわせてくれた。美空ひばりの「悲しい酒」を聞いても味わえるようにもなった。

 なんかこんな話をしていると、どんどんと話が演歌くさくなっていけないが、しかし、人生の裏も表も、喜びも悲しみも、時には名演出家として、あるいは地獄に誘う悪魔でもありいつも一緒にお酒がいた気がする。

 かつて禁酒法なる悪法がアメリカであったそうである。アルカポネかなんかのギャングがアングラで酒を横流しし大金を稼いだそうだが、人間の本能はそんな理屈で割り切れるほど簡単じゃない。どんなに立派な社会になっても、やはりお酒はなくならないだろうな。

 ただ、今回断酒宣言をして、ちょっと悲しいことがひとつある。お祝いのお酒であり、友と酌み交わす友情の酒である。これは何物にも変えがたい喜びだった気がする。まあ、私の場合は水でも十分喜びは感じれるからいいのかも知れないが。

 なにせ、私は「ビール以外は一切酔わない」という父の息子である。水でもアルコールでも、大して酔わないので、にたようなものである。とにかく今振り返るとお酒は懐かしくもいい思い出だった。

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