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2007年11月

2007年11月25日 (日)

【経営】指導者研究『落合監督』(その4)〜世紀の決断の評価

 今回の日本シリーズにおける落合監督のこの完全試合を前にした山井投手に対する決断に対しての評価はどのようなものだっただろうか。

 これについてはマスコミやプロ野球解説者などスポーツマスコミにおける評価はご存知のように大きく二つに分かれている。

 それでは、まず歴史的な記録を前にして夢をたたれた山井本人はどう思っているのだろうか?

 彼は試合から数日たってマスコミにこうコメントしている。「完全試合は投げている時は意識しなかった。谷繁さんがスライダーを引き出してくれた。感謝です」と謙虚に振り返る。

 8回を終えてベンチに戻ると森投手コーチから「体力的にどうや」と聞かれ「代わります。」即答した。

 「この試合は個人記録は全然気にしていません。勝利が優先。ボクも岩瀬さんに投げて欲しかった。」とケロッとしている。

 野球関係者の中では実に様々である。解説者の張本勲氏は、落合監督の決断は勝つためには当然の判断とした上で、「打者出身の者は落合監督に賛成で、投手出身の者は反対が多い。特に気の強い投手ならば何があってもマウンドに上がるだろう。それくらい完全試合は投手にとってはロマンだから。」と述べている。

 今回破れた元日本ハム監督の大沢啓二氏は「結果として勝ったのだから非常に素晴らしい決断だった。将は結果がすべて。」とのべている。

 落合監督に直接インタビューした江川卓氏は「最後は岩瀬じゃないとチームのまとまりがつかない。皆が納得する選手で最後は締めくくるべき」と賛成である。

 これに対して反対意見の代表として東北楽天の野村監督は「監督が10人いたら10人とも替えないのでは」と発言。

 また北京五輪野球日本代表監督の星野監督は「私だったら投げさせていたと思う」とするものの、「思い切った決断だった」と一定の理解を示している。

 一方かつて日本シリーズを征し日本一となった名将といわれた監督たちの判断はどうだろうか。

 元西武監督で清原、秋山、工藤、松沼らを育て上げ西武の黄金時代を築き、日本シリーズの大舞台での勝負の厳しさを知り抜いている森祇晶氏はこう語る。

「公式戦ならば迷わず続投だろう。しかし、53年ぶりの日本一が目の前まで来た。落合監督は私情を捨て、チームの悲願を確実とする采配に徹した。よくぞ決断した。おそらく過去2度の日本シリーズに(ピンチの場面で温情策をとって続投を選んで打たれた)負けた経験が、監督の決断を後押ししたのだろう」と。

 さらにWBCで世界の野球の厳しさを知り抜いている福岡ソフトバンクの王貞治監督、またかつてヤクルト、西武で監督を務め常勝軍団への基盤を作り上げた広岡達郎氏らは勝利の厳しさを知るものとして、落合監督の決断は当然の采配と断言している。

 11月13日、落合監督は、プロ野球界最高の賞である正力松太郎賞を選考委員会の満場一致で受賞した。

 その際、選考委員長であり、かつて巨人のV9を成し遂げた歴史的名監督、川上哲治氏は、「正力さんはいつも『勝負に私情をはさんではいかん』と言っておられた。日本シリーズでも勝つことに徹する強い信念が感じられた」とコメントし大変高く評価している。

 このように過去何度も日本シリーズを経験し勝負の厳しさを知り抜いた名将たちは、落合監督の決断は正しい、いやそれは勝つことがすべてのプロの世界では当然の決断だと皆共通に言い切る。

 在京のスポーツ各紙やTV局は「非情の交代」 と報じたが、それでは実際にテレビで見ているファンはどう思っているのだろうか?

 これに対して、各スポーツ誌が実際に行ったインターネット上での緊急アンケートでは、意外なことにマスコミでの報道に反して、賛成が反対を少し上回るという結果であった。

 つまりファンはマスコミの報道内容とは異なり、見ているところはきちんと見ていると言えるだろう。ここでも落合監督の決断が評価されていることが分かる。

 それでは最後に落合監督が経営者、指導者として最後まで意識した『お客様』である地元名古屋を始め全国の中日ファンのファンの反応はどうだっただろうか?

 在京、在阪のマスコミや解説者とは異なり、実際に球場に足を運び選手のグッズを買いファンクラブに入って、中日ドラゴンズという球団の売上に直接貢献してくれるのは、彼ら全国のドラゴンズのファンである。

 プロとしての収入の多くはこうしたファンの支払うお金であり、選手や監督、コーチの年俸もここから出ている以上、彼らにとってはお金を払ってくれる『本当のお客様』である。

 選手がグランドで素晴らしいプレーや感動的な試合を行うことで、さらにファン層は広がり売上も拡大するのである。

 それではその『本当のお客様』の反応はというと、53年ぶりの優勝、日本一に町中が沸き、この落合監督の決断を心から歓迎している。

 従来、落合監督に冷ややかだった一部地元マスコミや、彼に批判的だったドラゴンズOBの解説者も目の前で大きな成功を見せ付けられ、53年ぶりの日本一に沸き返るファンを前にしては、もはやなすすべはなかった。

 昨日まで落合はけしからんと言っていた輩が、掌を返したように、『さすが落合監督』ともろ手を上げて高く評価しているのである。

 現役時代から実績を残すことで世間の批判や雑音を封じ込めてきた落合監督ならではのやり方であり、彼の『お客様第一』の判断は正しかったことが明らかになった。

 今回の落合監督の決断にあれこれ批判しているのは、中日ドラゴンズとは直接関係のない、在京、在阪のマスコミや解説者が中心ということである。

 多くのファンも勝負の厳しさを知るプロの目も落合監督の決断は正しいと判断し、実際にお金を払う『本当のお客様』にも勿論大いに評価されていることがこのことで分かると思う。

 さてそれでは落合監督の決断を通じて見たとき、『指導者とはいかにあるべき』だろうか。私たちはそこから何を学びとるべきだろうか。今回の研究で以下の9つの条件が浮かび上がる。

【落合監督に見る指導者の9つの条件】

(1)『53年ぶりの日本一』という経営理念、基本方針、「お客様」であるファンを含めたチーム全体のミッションを明らかにする。

(2)その上で一番勝つ確率の高い手段をとる。岩瀬という絶対的な勝利の切り札を使う。

(3)厳しく合理的な判断を行った後に選手一人一人に「心からの情」をかける。選手の立場に立ち目先の記録もさることながら選手個々の人生のことを考える。

(4)私心を捨て、一度決断した上は、迷うことなく実行する。

(5)決断した以上、すべての責任は一切指導者自らがとる。挑戦した選手を責めたりはしない。

(6)マスコミその他周囲のの批判はすべて甘んじて受け入れる。

(7)手柄は独り占めせず、まずがんばった選手を誉める。特に山井だけでなく岩瀬の殊勲も讃える。

(8)勝負は下駄をはくまで分からない。念には念を入れ詰めを怠らない。

(9)勝つためには常に私情を捨て非情でなくてはならない。

 以上が今回の落合監督の決断から見られる「指導者の9つの条件」と言えよう。特に指導者は結果責任を求められる。

 仮に山井に代えて出した岩瀬が打たれていたならば指揮官である落合監督が全責任を負うのは当然である。その上でどうすれば少しでも勝利に近づけるか考えるのが指導者である。

 また松下幸之助も「合理的判断の後に情(なさけ)をかけよ。」というように、まずは勝つために非情になるところは徹底すべきである。

 しかし、それで終わったのでは人はついてこない。あくまで選手の人生という長期的視野にたって、その人のために何が大切かという深い愛情が必要だ。それでこそ、選手は指導者を人間として慕い尊敬し従うのである。

 山井に対して厳しい対応をとった落合監督。しかしこの試合に命をかけ、血で染まった指を隠し、痛みを堪えて投げ抜いた山井こそこの試合一番の功労者だということを知り抜いているのも、指揮官たる落合監督の他には誰もなかった。

 日本一を決めたこの試合の記念となるウィニングボール。普通ならば勝利監督の落合監督か、あるいは胴上げ投手の岩瀬投手の元に届けられるはずだが、この日は違っていた。

 この日の最高の功労者として山井投手に渡されている。「みんなは一人のために、一人はみんなのために。All for One, One for all。」

 これこそが、オレ流監督、落合博満監督の指導方針の現れなのである。


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【経営】指導者研究『落合監督』(その3)〜非情采配裏側の真実

 『もしクレオパトラの鼻が低かったら歴史はどう変わっていただろうか?』

 歴史に『もし◯◯だったら』という議論がよくあるように野球にもこの種の議論はよくなされる。

 『もし自分があの時落合監督の立場だったらどう決断していただろうか?』

 『もし山井があのまま投げ続けていたとしたらどうなっていただろうか?』

 『もしあれが山井でなくエース川上だったら落合監督は代えていただろか?』

 今回の日本シリーズではこの『もし』が何度巷で騒がれたことだろうか?それほどまでに世間の注目を集め物議をかもした日本シリーズだった。

 長いプロ野球の歴史の中でもかつてない出来事であった。

 2007年プロ野球日本シリーズ第5戦、地元名古屋ドームで3勝1敗と53年ぶりの日本一にあと1勝と迫った、中日ドラゴンズ。対するは前年の覇者、北海道日本ハムファイターズ。

 第1戦に先発したエース、ダルビッシュと肩の故障で長くブランクのあった山井の先発で試合は始まった。

 試合は2回裏、中村紀洋のセンターオーバーの二塁打、平田の犠牲フライで1点を中日が先制。

 その後はダルビッシュ、山井ともに譲らす、中日1点リードのまま手に汗握る投手戦を展開。

 中日先発の山井は得意のスタイダーが冴え渡り8回まで24人の打者を完全に抑え、一人のランナーも許さない完全な試合。

山井

 残り三人抑えればプロ野球史上初、本場アメリカ大リーグでも一度もない、日本シリーズでの完全試合を達成する所まできていた。

 先発投手の8回パーフェクトピッチングは日本シリーズの新記録(過去の最高記録は村山実(阪神)、佐々岡真司(広島)が樹立した7回1/3)である。

 9回表、球場の中日ファンから山井の続投を望む山井コールが湧き起こっていた中、落合監督は、ストッパー岩瀬仁紀への継投策を取った。

 それは日本シリーズ史上初の完全試合という金字塔への挑戦権をも“放棄”する決断だった。

 最後は守護神・岩瀬が3人で締め、継投による完全試合(参考記録扱い)を達成。日本のポストシーズンゲームにおける完全試合及びノーヒットノーランの達成は初めてであった。

 翌日の新聞は一斉に落合監督の『球史に残る非情采配』と書き立てた。しかもファンの間でも『私なら投げさせた』、『いや勝負はあれくらい非情にならなければ勝てないのだ』と賛成、反対の意見が真っ二つに別れた。

 プロ野球史上『球史に残る世紀の意思決定』。さてあなたならこの場合どちらの判断をとったであろうか?山井の続投か、それとも落合監督と同じ岩瀬へのスイッチか?

 正直判断の別れるところだろう。プロの解説者の間でも大きく判断は別れている。

 日々意思決定に追われる経営者。その判断次第で組織の命運を決する場合も多い。しかも貴方が誰にも相談出来ない最高意思決定者ならばその決断に当たっての重圧は計り知れないものである。

 ここではあの状況の中で落合監督は何を考えどう決断したのか?彼のインタビューや実際に彼自身書いたものをもとに、あの世紀の意思決定の裏側の真相に迫ってみることで指導者としてのあり方を探ってみることにしたい。

 まず色々分析を進める前に物語の主人公、山井大介投手がどんな投手なのかを見てみることにしよう。以下が彼のパーソナルデータである。

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■山井 大介(やまい・だいすけ)

山井ガッツ

【経歴】
 1978(昭和53)年5月10日、大阪府生まれ、29歳。神戸弘陵高から奈良産大、河合楽器を経て、2002年ドラフト6巡目で中日入団。1年目に6勝を挙げた。今季は14試合に登板、6勝4敗0S、防御率3.36。通算成績は5年間で84試合に登板、17勝13敗1S、防御率3.81。1メートル77、81キロ。右投げ右打ち。既婚。血液型はA型、趣味はドライブ。年俸1900万円。背番号29。

【素顔の山井大介】
 サングラスを着用している風貌がウルトラセブンにそっくりなため、ネット上ではそれがそのまま愛称となっている。球種は少ないがスライダーのキレには定評があり、直球と組み合わせてコントロールよく投げ込む。

【ここ数年の山井】
 05年はわずか3勝。昨年06年は右肩を痛め一軍登板はなし。オフに結婚したが、契約更改は合宿所でという二軍扱い。背水で迎えた春季キャンプでも、二軍のウエート室にこもり地道なトレーニングを続けた。
 その成果があって後半戦から復帰し、9月に登板5試合で4勝1敗、防御率3.00の好成績を上げ月間MVPを受賞して今季6勝。
 長年期待されながらここ数年は怪我に泣かされ、今シーズン、得意のスライダーを武器にようやく一本立ち出来たところだった。

【最近の山井の状態】
 2007年のクライマックスシリーズでは第2ステージ第1戦での先発予定も右肩痛再発のため回避し、この日本シリーズでも登板を危ぶまれていたが、なんとかこの日の第5戦に間に合い登板したが長らく投球間隔が空いていたため、首脳陣もこの日の投球を見るまでは不安があった。

【これまでの活躍】
 落合監督はインタビューの中で山井についての印象についてこう答えている。 『彼のこんな活躍を見たの僕が監督になってから3回目でしょう。
 最初は2004年、優勝争いが激しさをますペナントレース終盤の広島戦、ローテーションの谷間で左の長峰とジャンケンで先発を決めて好投した試合。

 そしてその年の日本シリーズ西武ライオンズとの第4戦に、大方の予想を裏切りまさかの完封をした試合。この2試合しか記憶にない』と語っている。

【年度別成績】
2002年 6勝3敗(率)3.93
2003年 0勝0敗(率)4.76
2004年 2勝1敗(率)3.33
2005年 3勝5敗(率)4.13
2006年 怪我で登板なし
2007年 6勝4敗(率)3.36
通算 17勝13敗(率)3.81

【投球した山井の言葉】
 「去年や前半戦のことを考えたら、こんな場所に立てるなんて…。いろいろな人に、感謝の気持ちしかないです。」

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 このデータを見る限り、正直彼のこの日の好投は本人は当然、監督、コーチの誰もが想像しなかったと言える。

 しかも試合後、この交代について山井本人がインタビューの中で、個人の記録達成は眼中になかったこと、4回にマメ(肉刺)がつぶれたことや握力が低下していたことに加え、「最後は岩瀬さんに投げてほしい」という気持から自ら降板を申し出たことを明らかにしている。

 また、落合監督も山井交代は手のマメ(肉刺)をつぶして出血していたことと右肩痛が再発してクライマックスシリーズへの登板を回避していたことだと説明した。

 後日落合監督は記者からのインタビューでの質問にこう語っている。


【落合監督インタビュー】
 「あそこは一点差の場面。一つ間違うと流れが向こうに行ってしまう大事な局面でした。だから岩瀬へのスイッチについては全く迷いはありませんでした。世間がこれほど大騒ぎするとは私の方が驚いているくらいです。」

 「みんなが完全試合を見たいのは分かる。オレだって見たい。でも山井のここ(ユニホームの右太もも部分)の血を見たら…。本人が『ダメです』と言ったらしょうがない」(注:山井は4回から血豆をつぶし皆には内緒で痛みを必死にこらえて8回までマウンドにたっていた。)

 「完全試合といってもそれは個人の記録でしょ。それも大事かも知れないが、我々のお客様であるドラゴンズファンにとっては日本一こそ最大の望み。そこのところを天秤にかければ迷うことなく当然の判断です。だから一切迷わなかったですね。」

 「仮に彼にマメが出来ていなくても同じ判断をしてたでしょうね。ただし、彼もあそこまでもたなくて、5回か6回で降板してたんじゃないですか。皆で日本一を目指す日本シリーズという大舞台だからこそできたんですよ。そういう意味では山井は本当によく投げました。」

 「あの時山井じゃなくて、エースの川上が投げていても判断は同じです。岩瀬に代えていますよ。でも川上だったら自分から岩瀬に代えてくれといってくるでしょうね。」

 「それほど岩瀬はうちにとって大事な存在だし、彼を最後に持ってくることを前提にすべてのゲームプランを立てているわけですから。」

 「山井には来年、再来年がある。それでなくても右肩を悪くしてこの2年放れていないんだ。あれで『行け』といって肩をぶっ壊したらアイツの野球人生は終わってしまう。指導者としてそれは出来ないでしょう。」

 「それより岩瀬をもっと評価してやってくださいよ。パーフェクトの試合を引き継いで出ていくわけですからね。その重圧はとんでもないほど大きい。それを表情一つ変えずに抑えるんだから岩瀬は大したものです。もっと評価されてもいい。」

 「もしあそこで岩瀬を出さずにいてその後北海道に行って3連敗でもしていたら、何故あの時岩瀬を出さなかったということになる。出していてもこうして色々言われる。」

 「だから何をやっても言われるけど、日本一になって文句言われるならいいじゃないですか。ファンであるお客様たちは一番そのことを望んでいたわけだし。」

 「マスコミが色々言うのは分かります。ベンチの中のことを知らないんだから、それはそれで仕方ないことですよ。色々言われることには慣れてますから。」

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2007年11月23日 (金)

【経営】指導者研究『落合監督』(その2)〜悲願の日本一達成

 そしていよいよ待ちに待った日本シリーズがはじまった。対戦相手は前年の2006年、1勝4敗で屈辱の敗北を味わった北海道日本ハム。

 ダルビッシュ始め武田久、マイケル中村など強力な投手陣を武器に一点を守り勝つ野球は粘り強く手強い。

 第一戦はエース川上が登板。ダルビッシュとの投手戦はダルビッシュに軍配があがる。

 第二戦以降、本来の打線の粘りを取り戻したドラゴンズは3勝1敗と大手をかけ、53ぶりの日本一に後一歩と近づいた。

 しかし落合監督を始め中日の選手の中に誰一人浮かれるものはいなかった。

 敗者復活から這い上がったクライマックス・シリーズ。一度は死んだ身。なりふり構わす全力投球してきた。

 指揮をとる落合監督も二度と同じ過ちは犯したくはなかった。それほど彼の日本一に向けてのこの四年間は苦難につぐ苦難のイバラの道でもあったのだ。

 2004年のシーズン、初めて監督として中日の指揮をとる落合監督。選手全員に10%の実力の底上げを求めトレード、解雇は一切行わず現有戦力で望んだ。結果はセ・リーグ優勝。

 しかし西武ライオンズとの日本シリーズでは勝手が違った。セ・リーグペナントレースのシーズン中、大車輪の活躍で優勝に貢献した岡本投手を引っ張り過ぎて自滅。

 流れは最後までもどらず、3勝2敗と大手をかけながら逆転で優勝をのがしてしまう。この時から落合監督にとって日本シリーズ優勝へ向けてのイバラの道が始まるのである。

 ここで『日本シリーズのような短期決戦ではシーズン中と異なり勢いのある選手を使うべきだ』ということを学んだ。

 そしてディフェンディング・チャンピオンとして望んだ2005年、この年から始まったパ・リーグとの交流戦でまさかの惨敗。その年の優勝は阪神だった。

 そして捲土重来を期し、入念な交流戦への対策の上で望んだ2006年。エース川上、ベテラン山本昌、鉄壁の守護神、岩瀬ら投手陣を中心にした守り勝つ野球というドラゴンズのスタイルが確立しセ・リーグ制覇。
 ベテラン山本昌は41歳という史上最年長でのノーヒットノーランという記録を達成し最後までチームを引っ張った。

昌

 しかし、日本シリーズでは第一戦をエース川上で勝ったものの、第二戦ではその山本昌を本人がまだ行けると言うので、必要以上に投げさせ結果流れが敵陣に行ってしまい、1勝4敗と負けてしまった。

 ここでも勝機とあれば、非情に交代させることも大切だとチーム全員が学んだのであった。

 ドラゴンズにとって、また落合監督にとってそれほどまでに日本一というのは遠い遠い、心の底から恋い焦がれた困難なゴールだった。

 そして経営者としてみれば、お金を払って球場に足を運んでくれるファンであるお客様様の最大の『ニース』こそがこの日本一だったのである。

 経営者であり、指導者である落合監督はその事を誰よりも痛いほど知っていた。

 だから日本シリーズ第5戦地元ナゴヤドームでの最後の試合。自分たちの最大のお客様であるドラゴンズファンの前で日本一になること。それ以外に落合監督もチームの全員も頭の中にはなかったのだ。

落合監督胴上げ


 だから直前の8回裏まで完全試合を続けていた山井投手を変えて、ストッパー岩瀬をマウンドに送ったのだ。

 そして、ここにもう一人悲痛な気持ちでこの瞬間を迎えていた男がいた。中村紀洋である。

 彼は近鉄時代から手首と腰に持病を抱えていた。そしてドラゴンズの日本一を目指して、チームが一丸となって戦っている中で、彼は自分の体にムチをうち続けた。

 医者は『野球が出来る体ではない。直ぐに手術を』といったが一日も長くドラゴンズの一員として、また現役選手としてファンに、そして恩人落合監督に恩返しをと強く願っていた中村選手。

 そして何としても落合監督に日本一の胴上げをプレゼントしたいと願う中村紀洋は、医者の薦めも振り切り、もはや満身創痍と化した自身の体を痛め続けたのだった。

 彼のこの願いは神に通じたのか奇跡はおこった。全試合出場し、打率.444、打点3。シーズン中はチャンスに凡退が多かった彼だが、この日本シリーズでは驚異的な活躍を見せ、見事シリーズMVPに輝いた。

 試合が終わりお立ち台に登場した彼は恥ずかしそうに帽子をとり、『本当に長かった。色々なことがあった一年でした。』と、過去の苦労から落合監督に拾ってもらった数々の思い出を振り返り涙を浮かべながらこう叫んだ。

 『自分を拾って下さったドラゴンズさんに本当に感謝します。』と。

 自分のチームなのに『さん』づけはあまり考えられないが、外様の自分を温かく受け入れてくれた監督、コーチ、チームメート、ファンに対する心からの気持ちだったのだろう。


 試合後のインタビューで中村本人は『シーズン前、落合監督にお前には期待していないからな』と言われた言葉が一番心に染みたと語っている。

 それは『落合監督の独特の言い回しなのだろう。そういうことで長いブランクがある自分に過大なプレッシャーを感じさせないようにしてくれているんだ。

 それほど自分たち選手のことを気遣ってくれる監督に何としても恩返ししなければという強い気持ちが自然に湧いてきました。』と語っている。

 その後も中村紀洋はウッズの抜けたアジアシリーズでも、怪我を押して、日本の代表チームの四番打者として試合に出続け優勝に貢献した。


 落合監督は来期の中村についてインタビューにこう答えている。

 『今年は何とか野球を続けたいという気持ちと勢いの中で体力も持ったかもしれないが彼も年々歳をとるなかで、今年の秋から来年のキャンプともう一度基礎から体力を鍛え直して行けば選手としての寿命も伸びていくだろう。』と。

 王や長島のように決して野球エリートとして順風な生き方をしてこなかった苦労人、落合監督は単に目先の活躍を手放しで喜ぶことなく、選手一人一人の人生を考えて指導している。


 これが落合監督の本当の『オレ流指導方法』であり、現場の選手の一人一人が心の底から彼を慕う理由と言えるのだろう。 


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【経営】指導者研究『落合監督』(その1)〜裸一貫からの出直し・中村紀洋選手

 プロ野球の日本シリーズ、アジアシリーズが終わった。そしていよいよ星野ジャパンが率いる北京五輪アジア予選が始まる。

 今年の日本一を決めたのは落合博満監督率いる中日ドラゴンズで実に53ぶりの日本一であった。

落合監督胴上げ

 名古屋で生まれ育った私、ダイブツ君としては長年ドラゴンズファン一筋だっただけに喜びも大きい。何しろ初めての日本一、アジア一を経験したのだから。

 ご多分に盛れず、連日テレビで関連するドラゴンズの特別番組は全て録画し何度も見て楽しんでいる。


 しかし今回は一人のファンとしてよりも、仕事の上での経営者研究、指導者研究として真剣に見ている。

 というのも今から四年前の2004年、落合博満さんがドラゴンズの監督に就任した折から、「オレ流」監督のそのユニークな采配や指導方法に興味を持ち、彼の著作はほとんど読み独自に研究をしてきた。


 監督就任以来彼は2004年からの4年間に2度のリーグ優勝を成し遂げ、3度日本シリーズに進出し、今年日本一、アジア一に輝き、名実ともに名監督の仲間入りをしたといってもいいだろう。

 彼の現役時代の活躍は誰もが知るところだ。ロッテ、中日、巨人、日本ハムと渡り歩き、まさに優勝請負人よろしく、3度の三冠王に輝く歴史上の名選手でもあった。

 そのユニークな言動やマスコミにおける無愛想な振る舞い、練習嫌いや時折球団批判とも取れる発言や本音を幹部やマスコミにぶつけ物議をかもした。

 さらに彼が現役の時、「結果を残したプロが金をとって何が悪い」と公然と言ってのけ、周囲ともめながらも日本人初の一億円プレーヤーになりながら、守銭奴のようにも思われてきた。

 常に強烈に「個」を主張し他のメンバーと群れることを嫌う一匹狼として見られた落合博満は、やがていつしか「オレ流」と呼ばれ、世間から見ると異端児扱いされるようになった。

 さらに奥さんの信子夫人も落合監督に輪をかけた強烈な個性のため、夫婦揃っての変わり者とみられることも多い。

 そんな彼だが実は誰よりも練習熱心でチームプレーを重んじ、より選手の立場に立ち、それぞれの個性を重んじる苦労人監督であることを知る人は少ないだろう。

 オリックスの清原選手、巨人の小笠原選手、ソフトバンクの松中選手など多くのプロ野球選手が心底彼のことを慕っている。

 昨年オリックスともめて退団し、テスト生、育成選手からレギュラーになり、最後は日本シリーズのMVPを獲得した中村紀洋選手も、落合監督の熱狂的信奉者であったことは有名だ。

 まだ近鉄でプレーしていたころ、自分のスタイルに迷いが生じ大きなスランプに陥っていたとき当時解説者だった落合博満から直接指導を受け、彼のビデオを擦りきれるほど見て、落合の観音打法をみて自分にあったフォームを生み出した経緯があった。

 それ以後、中村紀洋は落合信者となった。そんな彼を知る落合も彼がオリックスを退団し、行くあてもなく途方にくれていたところ、「どこまでやれるかテストだけでも受けてみろ」と沖縄キャンプに呼んだのだった。

 当時マスコミは連日中村のわがままと報道し、「どこの球団も相手にしないのは自業自得だ」とばかりに相手にしなかった。

 最初は中村には興味がないと言っていた落合監督だったが、しかし「彼も実績のあるプロ野球の宝だ。周りの偏見で一人の選手の可能性を潰すことは許されない」という信念のもと、周りの反対を押しきり彼を迎え入れた。

 かつてのパ・リーグのスター選手である中村紀洋も大リーグ挑戦等で三年間も実質的なブランクがあり体は相当に錆び付いていた。

 そんな彼に対して落合監督は「その体の錆び付きが取れたら雇うかも知れないが現段階では体力は一軍の中で最低だ。」、「選考は厳正にやる。特別待遇は一切認めない。中村が仮に入団し一軍に入ればその分若い選手が一人チャンスを失うことになる。」と断言している。

 プロである以上チャンスは皆平等であるべきだと周囲の中村を特別待遇しているのではという偏見を一蹴している。ここでも落合監督は選手の立場にたって最大限配慮した上でそれでもプロとしての厳しさを貫いているのだ。

 裸一貫から必死にグラウンドを駆け回るかつてのスター選手、中村紀洋選手。テスト生から、育成選手、また正式な入団、二軍戦初出場、そして一軍選手登録と好奇の目で見る世間やマスコミを尻目に、中村は連日子供のような素直な心で必死に白球を追いかけた。

 落合監督同様、中村紀洋もこうと言い出すとどこまでも自分の考え方を貫く性格で、周りとの協調性に欠け、そのため近鉄時代から何度も球団と対立を繰り返してきた。

 当初誰もが「ノリは最初はしおらしくしているだろうが必ず活躍し始めたらワガママな昔に戻り必ずチームの中で揉め事を起こすに違いない」と思っていた。

 しかし実際は違っていた。彼は丸裸になって出直せたこと以上に、誰よりも信頼し慕っている落合監督や、路頭に迷っていた自分に救いの手を差しのべてくれた球団に純粋に恩返しをしたかったのだ。

 やがて立浪や山本昌などベテラン始めチームメート全員が温かく彼を迎え入れた。最初は彼のためにポジションを奪われたことで反発もあったが、しかし中村のひた向きな姿勢は皆の心に伝わった。

 外様の彼が真にチームの一員となれた瞬間であった。

 しかし今年2007年のペナントレースは巨人の優勝に終わった。最後までペナントレースを征しての優勝にこだわった落合監督。

 一度はマジック点灯まで行き優勝まで後一歩にまで迫りながら、もう少しのところでゴールには至らなかった。やはり日本一の壁はここでも遠かった。

 ペナントを巨人に奪われ、頭を丸めた落合監督。「我々にはもはや失うものはありません。全身全霊を傾けて戦います。」そうファンに約束した言葉は嘘ではなかった。

 その日から中日の奇跡の快進撃が始まる。クライマックスシリーズ、阪神に2連勝、そしてリーグ優勝した巨人に対しても3連勝で日本シリーズ進出を決める。

 プロとしてのケジメを誰よりも重んじる落合監督は敵地東京ドームのファンや選手に対して、「あくまでもセ・リーグを征したチャンピオンはあなたたちだ」と敬意を表して、胴上げは行わなかった。

 「正々堂々と勝ち抜いてこそ真の勝利なのだ。来年また勝つべき目標が出来た。」とプロとして勝ちに最後までこだわる姿勢を貫いた。


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《ダイブツ君絵描き歌》

2007年11月18日 (日)

【人生】七五三と『とおらゃんせ』

 先週11月15日は七五三のお祭りであった。全国の神社やお寺には綺麗に着飾った小さな子供たちが両親に連れられ千歳飴を手にして晴れがましくお詣りする風景をよく目にした。

 子供の成長を祝って昔からある伝統な年中行事であり、毎年男の子は五歳、女の子は三歳と七歳の年の11月15日に行われる。

 元来は関東圏における地方風俗だったらしいが、やがて全国に広がったものだ。

 七五三が今日のように行われるようになった理由はなんだろうか?

 まず旧暦の15日はかつては暦の上からも満月の日に当たり、何事をするにも吉であるとされた。

 また、旧暦の11月は秋祭りが終わりお米の収獲を終えて神に感謝する月であり、その月の15日に子供の成長を感謝しお詣りするようになりこの日に決められたのである。

 それでは何故七歳、五歳、三歳なのであろうか?これにも諸説あるものの昔からのしきたりで、子供が年齢を経て成長しどんどんと大人になるに従って着衣や装いを変えていったことから以下のような説明が一般的である。

 まず三歳は髪を伸ばす髪置、五歳は初めて袴をつける袴着、七歳は、それまでの子供用の紐付きから本仕立ての着物と丸帯という大人の装いに変える帯解・紐落しという行事がもとになっている。

 昔から一、三、五、七などの奇数を縁起の良い数とする中国の思想の影響もある。女の子の桃の節句は三月三日、男の子の端午の節句は五月五日というのもこの思想から来ている。

 七五三と言えばつきものの千歳飴。もとは親が子供の健やかな成長と長寿を願い細く長く作ったとされている。

 その理由として昔は子供の体は大変弱く少しのことですぐに病気になり死んでしまった。そこで体もしっかりして来た七歳に神様にそれまで無事にお守り頂いたというお礼にお宮参りするのが習わしだったということも理由の一つに上げられている。

 皆さん童謡の『とうりゃんせ』の歌詞を思い出して頂きたい。この中に『この子の七つのお祝いにお札(ふだ)を納めに詣ります』というフレーズが出てくるがこれがまさにこのお礼参りのことなのである。

ところで皆さんこの『とおりゃんせ』の話について怖い伝説があるのはご存じだろうか?この歌には昔から様々な言い伝えがあり伝説となっている。

 折角のチャンスでもあるので今日はその伝説についてお話してみることにしよう。まずは子供の頃に唄った『とおりゃんせ』の歌詞を思い出してみることにしよう。

「♪とうりゃんせ、とうりゃんせ。ここはどこの細道じゃ。天神様の細道じゃ。ちょっと通してくだしゃんせ。御用のないものとおしゃせぬ。この子の七つのお祝いに、お札を納めに参ります。行きは良い良い帰りは怖い。怖いながらもとおりゃんせ、とおりゃんせ。」

 随分懐かしいフレーズだ。皆で手を繋ぎ人の手で鳥居の形を作り、この歌を歌いながら順番にその輪をくぐり遊んだのが懐かしい。
 昔はこの「とおりゃんせ」や「かごめかごめ」をやって遊ぶ子供たちをどこの公園や広場でも見かけたものである。

 もう一度歌詞を見ると不思議なことがいくつかある。何故行きは良くて帰りは怖いのか?用の無いものはどうして通してもらえないのかなどである。

 これはネットで調べると分かるが随分諸説があるようだ。

 もともとこの歌の由来については諸説ある。まず埼玉県川越市の川越城内にある三芳野神社の前にあった「とうりゃんせ」の碑に書かれた文章が有力なものの一つである。

 これを読むと寛永元年(1624)酒井忠勝によって再建されたこのお城。当時お詣りしたい神社が城内にあり普通の人の参詣は難しく「とうりゃんせ」はそのことを表現したものだと伝えられている。

 この川越説の他には、江戸時代の箱根など関所での取りしまりを、子供が真似て遊びにするようになったという関所ごっこ説も有力な説としてある。

 この他に最も有力とされるのが次の天神参り説である。もともと七歳の女の子の成長をお祝いして天神様をお詣りする七五三の行事がもとになったとする説である。

 昔から七歳になる前の子供は「神の領域」にいると言われ、不安定であった子供の魂は、七歳になって安定し、この世に定着すると考えられていたことが根っこにあるのだ。

 そのため子供が七歳になると天神様にお詣りをして「これまでは神の子として神様に守って頂いたが、これからは他に頼ることなく自らの力で災難を払いのけなさい。」と天神様から教わるのだという。

 そのため、「神様に守られていた行きはよいよいであるが、もはや神様に守ってもらえない帰りは怖い」ということになるのだ。

 七歳までは神の世界にいて、その後は人間の世界に属するというのは面白い考え方である。

 昔は数えでいうので今なら丁度小学校に上がる歳の8歳に当たるのだろう。つまり小学校に上がる前までは神の世界にいて、小学校に上がると人間の世界に入るという意味なのである。

 確かに言われてみれば、そうだろう。それまではただ毎日親のもとで遊んでいれば良かったのが、小学校に上がれば嫌でも勉強しなくてはならなくなる。

 また通信簿などを通じて評価され、回りの人とも競争しなくてはならなくなる。つまり人間世界の過酷な競争社会に飛び込むのがこの歳ということにもなる。
 そう考えるとこの七五三の行事は、我が子の成長を願い神に感謝するだけでなく、親の立場からすれば、これからこの子も「神の世界」を卒業し激烈な競争社会である「人間世界」に入ります。

 神様どうかこの子をこれからの受験戦争、出世競争、弱肉強食の地獄のような社会の中で、いつまでも子供の時のような澄んだ心を失なわず、立派に勝ち抜いて欲しいという、子供の将来を案じてのお詣りの方が素直な解釈かも知れない。

 これからは神社で七五三をお祝いする小さな子供を見かけたら、「そうか、この子もいよいよ戦闘服に着替えて競争社会に船出するのか。小さいのに大変だが是非頑張ってね。」というまた別の意味でもお祝いしてあげようと思うのであった。

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《ダイブツ君絵描き歌》

【芸術】60歳で確立した己のスタイル〜シャガール

シャガール作品
マルク・シャガール
『ロミオとジュリエット』(リトグラフ1964)

 今年は西洋近代画の巨匠、マルク・シャガール(1887-1985)の生誕120年の年に当たる。そのため全国至るところで展覧会が開かれている。昨年から千葉、青森、三重、高知。

そして現在は東京上野の森美術館、奈良県立美術館と立て続けに開催されており、すでにお出かけになられた方も多いかもしれない。

 ロシアでうまれ、画家としての才能を開花させた彼の第二の故郷でもあるフランス、パリではポンピドーセンターに於いても大々的にシャガール展が催された。

 私は正倉院展の帰りにシャガール展にたちよった。ちょうど国立博物館から歩いて奈良駅に向かう途中に奈良県立美術館がありそこで開催されている。

 普段は仕事が忙しくゆっくりと絵画など楽しむ余裕もないが、高校時代の昼休み、よく図書館に通って、ゴッホやルノアール、マネやモネといった西洋の近代画家たちの画集を楽しんだのを覚えている。

 なかでもシャガールはそのパステル調の底抜けな明るさや空飛ぶ恋人、独特のタッチの鶏などユニークなモチーフなどが好きでよく楽しんだものだ。

 豊かな色彩と幻想に満ちた彼の作品は、世界中の人々に親しまれ、作品に登場するユニークなモチーフの数々は、彼の独特の画風を決定付けている。

 空飛ぶ恋人達や花束、ロバ、鶏、サーカス、バイオリン弾き、聖書といったモチーフの数々は、いずれも深い愛情にあふれ、生命の喜びと平和への希望を人々に抱かせるのである。

シャガール作品
マルク・シャガール『赤い薔薇と恋人たち』(リトグラフ)

 しかし今回改めてシャガールの作品を見直してみて、新たな発見をすることができた。

 それは人目見れば彼の作品だと分かるあの画風であり、スタイルが確立するまでには、実に様々な紆余曲折を経ていることだ。

 彼がユダヤ人として生まれ、第一次世界大戦、ロシア革命、ナチスによるユダヤ人への弾圧、第二次世界大戦と彼が生きた過酷な時代背景の中で、彼の画風が暗い冷たい画風の時代を経て独自のスタイルを順番に確立していったことである。

 特にそれはおなじみのモチーフだけではなく、その風景画の中にその特徴がよく出てきているのだ。

 彼の芸術の源泉である生まれ故郷ロシア(現在のベラルーシ)のヴィテブスクの街並みや、「第二の故郷」と呼んだフランス・パリの華やかな景色、晩年移り住んだ地中海沿岸の美しい景色など彼の描いた風景画の作品の中にその画風であり彼の心の変化がよりくみ取れるのだ。

 ユダヤ人として生まれ、歴史の波に翻弄されながら各地を転々とした画家の生涯の軌跡。

 自身の心情を伝える重要なメッセージの中に、実は彼が彼自身のスタイルを確立するまでの変遷の鍵を読み解くことができる。

シャガール作品マルク・シャガール
『誕生日』 1915年 (ニューヨーク近代美術館蔵)

 彼が自分の絵の中に登場させる『空飛ぶ恋人たち』のモチーフなどはその典型だ。上の作品は、後に『空飛ぶ恋人たち』のモチーフとなるその原型が現れた作品である。

 彼が愛する妻のベラと結婚した直後まさに天にも昇る幸せの絶頂の時に描かれた『誕生日』という作品である。

1887年、ロシアのヴィテブスクでユダヤ商人の家庭に生まれ育ったシャガール。この作品が書かれた1915年はシャガール28歳の年で、前の年の1914年にベルリンのデア・シュトゥルム画廊で初めての個展を開き、翌年ベラと結婚し、故郷のロシアのヴィテブスクに帰郷していた時期で、彼の前半生で最も落ち着いて充実していた時期である。そしてシャガールは1922年までここに滞在する。

この絵は、彼自身の誕生日にブレゼントの花束をもらい、その喜びのあまり、二人が思わず宙に浮いてしまった様子を表している。

このころのシャガールの作品はキュービズムなどの影響を受けながらも、彼独自のスタイルを模索している最中である。

写実的な中にも彼独特の色使いや大胆なモチーフといった独自のスタイルを見つけ出そうとしている姿がかいまみえる。

実はシャガールは≪誕生日≫という作品を2度描いている。

最初は上の絵でありロシア人実業家が購入する。彼にとっては人生におけるまさに幸せの絶頂での作品だったが、しかしその後彼の落ち着いて幸せな日々は長くは続かなかった。

この作品の書かれた1915年当時は第1次世界大戦の最中だった。その証拠に彼の前後の作品にはそのことが色濃く反映された暗くて過酷な作品が多い。

 その後も彼の作品は略奪、盗難、破壊、壊滅、廃棄など数多くの試練にさらされ、多くの作品が散逸してしまっている。

 この作品もフランスで作品が勝手に持ち出され、売却されたのだった。再び同じ事態が起こることを恐れたシャガールは、1923年にこれとまったく同じサイズ内容で再び制作している。

彼の悲劇は止まるところがなく、やがてナチスによって作品すべてが焼き付くされるという、芸術家としては最も耐え難い過酷な試練にも遭遇している。

 そしてその後、彼は1922年、リトアニアでの個展を最後に生まれ故郷ロシアを去り、翌1923年、パリへ移り住む。1937年、フランス国籍を正式に取得するがナチスによる弾圧はこの頃からどんどんと酷くなっていく。1939年、カーネギー賞受賞。作品としての評価が高まる一方で次々とナチスによる破壊が繰り返される。一芸術家として居たたまれない日々が続く。1941年、ナチスからの迫害の難を逃れるためアメリカに亡命。そして1944年、30年近く連れ添った最愛の妻べラがこの世を去る。

 度重なる戦争、革命。故郷ロシアを追われ、また長年住み慣れたパリもナチスの迫害を受けて追いやられ、さらに魂を込めて創った自らの作品をことごとく焼き付くされ、今また最愛の妻までも失ったマルク・シャガール。この時、シャガール、54歳であった。

 しかし彼の心が本当に落ち着いて平穏が戻り、彼本来のスタイルが出来上がるのは、第二次世界大戦が終わってしばらくの後、彼が60歳を過ぎてからのことであった。

 彼の底抜けに明るいあの色調も幻想的な風景も、まるでどこかの絵本から飛び出てきたようなロバや鶏といった夢に溢れたあのモチーフもすべて、時代が幸せになり、彼の心にも文字通り平穏が訪れた60歳以降の作品なのだ。

 幸い彼はその後再婚もし97歳という長寿を全うし生涯2000点にもおよぶ作品を残している。

 しかし彼の前半生の時代の作品の多くは散逸したものが多く、今まで我々の目に触れないものが多かった。

 しかし、今回の展覧会ではそうした過去の作品も彼の生きた時代の順に沿って時系列的に観ることが出来た。

 このことで一人の芸術家が幾多の試練を乗り越え、齢60歳にして自分のスタイルをそれまでどのようにして確立していったか、良く理解出来るのである。

 60歳と言えば定年退職する歳である。職業人としてはもはや引退の歳だ。しかしシャガールは違った。

 60歳までが自分のスタイルを確立するための長い長い準備期間であって、そこから亡くなるまでの37年間にそれこそ誰からの束縛も迫害を受けることなく自由に絵筆をふるったのだ。

 定年になりもはや自分の人生も終わりだと嘆いているあなた。少しシャガールを見倣って「これまでは自分のスタイルを確立するための準備期間だったのだ。これからこそ人生本番だ。」と胸を張るのもいいかも知れない。

 「芸術は長し。されど人生は短し」と言われるが、シャガールの場合は芸術も長く人生も長かった。

 一人の芸術家の波乱に満ちた生涯を通じて、改めて人生と芸術の奥深さを実感させられた。
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◆マルク・シャガール(Marc Chagall)◆

シャガール写真

【解説】(展覧会解説文より)
今年は、20世紀最大の画家の一人であるマルク・シャガール(1887-1985)の生誕120年にあたります。

シャガールは、ロシア生まれのユダヤ人で、フランス、アメリカ、メキシコで活躍します。パリに出て“色彩の魔術師”といわれるほどの豊かな色彩感覚を開花させ、詩的で豊かな色彩表現と物語性をたたえたシャガールの絵画は、世界中の人々に愛と希望を与え続けました。

シャガール写真

革命や2度の世界大戦など激動の20世紀を駆け抜けたマルク・シャガールは、さまざまな苦渋、ユダヤ人であるがゆえの迫害を受けながらも、97歳で生涯を閉じるまで多くの作品を残しています。

彼の作品は油彩をはじめ、リトグラフ、壁画、ステンドガラス、陶芸など多岐にわたります。

1922年頃から版画の制作を始め、その後生涯に渡って約2,000点にも及ぶ作品を残しています。はじめは銅版画を中心に取り組んでいましたが、第二次世界大戦後リトグラフも手がけ、鮮やかな色彩の作品を次々と生み出しました。

愛や生命への賛歌を奔放な描線と、踊る色彩で幻想的に描いたシャガールの絵画。そのシャガールの素顔に迫ります。

※お問合せシャガール展(奈良県立美術館)2007年10月6日[土]〜12月16日[日]

生誕120年記念 色彩のファンタジーシャガール展(東京 上野の森美術館)2007年10月13日(土)〜12月11日(火)


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2007年11月13日 (火)

【芸術】感動の映画『涙そうそう』

 久しぶりに感動する映画を見た。妻夫木聡と長澤まさみ主演の『涙そうそう』である。

 実はロードショーの広告を見ていて一度見てみたいなと思っていて見れなかったのだが、少し時間が出来たのでレンタルで借りてみることができた。

数年前、夏川りみが歌ってヒットした曲の実話を題材に映画化したものだそうだ。

『古いアルバムめくり
ありがとうってつぶやいた』で始まる名曲である。

沖縄の曲らしくさわやかで陽気なのだがどこか物悲しさが漂う。

どこかの音楽番組で『この曲は実際にあった実話をもとに作られた曲です。』と紹介されていたので、どんな話なのか気になっていた。

 物語は沖縄の那覇で自分の店を持つことを夢見て、市場や居酒屋で必死に働く妻夫木聡演ずる主人公のお兄さんの洋太郎と、成績優秀で離島から一人だけ那覇の高校に合格した長澤まさみ演じる妹のカオルの心暖まる、しかしちょっと切ない物語である。

 高校に合格し離島から那覇にやってきた妹のカオルは兄と二人暮らしを始める。二人は幼い頃、母親を病気で亡くし、親戚のもとで育った。

 しかし本当は二人は血のつながらない兄妹だった。兄は小泉今日子扮する母親の連れ子であり、妹のカオルはジャズの演奏に狂うヤクザな父親の連れ子であった。

 やがて父は家族を捨てて放浪の旅に出かけ、母は女手一つで幼い二人を育てるのだが無理がたたって他界してしまう。

残された二人は平良とみ扮するお婆あのもとで育てられ立派に成長する。

一足早く那覇にでた兄は長年の夢であった自分の店(飲食店)をもつために、昼は市場で配達の仕事をし、夜は居酒屋でバイトをしながら仕事を覚え必死にお金を貯めるのだった。

那覇市内の高校に入学するため、久しぶりに島から出てきた妹はすっかり娘らしくなっていた。幼いときから妹と二人で生きてきた兄は妹の親代わりでもある。

妹の高校の入学式についていって嬉しくてはしゃぐ姿は父親の姿と変わらない。

兄には琉球大学の医学部に通う彼女がいた。居酒屋で悪い男に騙されそうになっていたところを助けたのがきっかけで付き合い始め、妹が那覇に出てくるまではよく泊まりに来ていた深い間柄であった。

しかしあまりに仲のいい兄妹の姿を見て突然のライバルの出現に少し焼きもちをやく彼女であった。

そんな折りバイト先で知り合った中年の男に店を出してやるとそそのかされ騙されてしまう兄。多額の借金をかかえ苦境に立たされてしまう。

しかし、その後も挫けることなく、くさることなく苦しい肉体労働に耐えながら必死に借金の返済に努力する。これもすべて妹を思ってのことだった。

そんな折り付き合っている彼女の父親で病院を経営している医師が兄の前に現れ、このお金で借金を清算するようにと手切れ金を渡し娘と別れるように迫る。

しかし兄は意地とプライドできっぱりと申し出を断るのであった。

やがて妹は高校三年生の受験の夏を向かえる。三者面談で学校を訪ねる兄と妹。成績優秀な妹は担任の先生から琉球大学の合格が有望だと告げられる。親代わりの兄は自分のことのようにはしゃぐが、担任はこの夏が勝負だとも告げる。

妹の合格を祈ってさらに厳しい肉体労働で自分を痛め続ける兄。そして必死で自分のために苦労する兄のために少しでも助けになろうと、兄には内緒で受験勉強の合間にファミレスでのバイトに精を出す妹。

しかし兄の親友に内緒でバイトしているのを見られてしまう。

やがてお祭りの晩に浴衣で綺麗に着飾り兄と一緒に踊るが、偶然出会った親友が妹のバイトのことを兄に話してしまう。

家に帰り二人は言い合いになる。この大事な時期にどうして勉強しないのだと怒る兄。そんな考えを押し付ける兄が重荷でもう大人なのだから自分のことは自分で決めたいと主張する妹。
二人は気まずいまま別れてしまう。先に家に帰ってきた兄は妹の帰りを心配し玄関で朝まで待っていたが、妹はとうとう朝まで帰ってこなかった。

翌朝早く家に帰ってきた妹。心配で朝まで妹の帰りを待っていた兄だったが一言二言コドバを交わしたまま家の中に入ってしまった妹。二人は気まずいまま時間は流れた。

しばらくして妹の合格発表の日がやって来る。見事合格を果たした妹。周りの人たちすべてに妹の合格を我が事のように伝え喜びを爆発させる兄。借金もすべて返し終わって喜びは最高潮だった。

しかし次の瞬間、喜びに満ちた兄には妹の意外な決意を聞かされるのだった。兄のもとを離れ独り暮らしを始めたいという。前から決めていたらしく妹の決意は固かった。

突然の妹の独立宣言に戸惑いを隠せない兄。妹の心に何があったのかと心配する親代わりの兄。そんな兄の耳に妹の良くない噂が耳に入る。町のナイトクラブで中年の男と会っていた妹を見掛けたというのだ。

妹のことを案じた兄はとにかく真相を明らかにしようとナイトクラブへと向かった。

そしてそこで出会ったのは意外な人物だった。それは家族を捨てて家を出た義理の父親だった。相変わらずジャズに狂っていた。しばらく方々を転々とし最近この町に戻って来たらしい。

妹に変な虫でもついているのではという兄の心配は取り越し苦労だと判明し、とりあえずほっとしたのだった。

しかしその日以来妹の態度が妙によそよそしかった。奇妙に思った兄はジャズ狂いの義父から、彼が兄妹は実は血が繋がっていないのだと妹に告げたと聞かされる。そしてこれまで育ててくれた兄をそろそろ解放してやれと告げたと真相を聞かされた。

それを聞いた兄は思わず拳を振り上げ、どうして告げたのかと今までの溜まりに溜まった不満と怒りを義父にぶつけケンカが始まる。しかしヤクザな義父にはかなわない。顔に傷を追って家に帰る兄。

ぶっきらぼうな言い方だが義父は帰り際にいままで妹を立派に育ててくれた礼を述べる。

家では兄を待ちくたびれてテーブルで居眠りしている妹の姿が。いままで母親の遺言で妹の面倒を見るようにと言われていた兄。

しかしこの時は美しく成長した妹に、あってはならない『女』を感じてしまう。思わず妹の顔に手を伸ばそうとする兄。そして次の瞬間気配を感じた妹が目を覚ます。テーブルの上には兄妹の思い出を綴ったアルバムがあった。

我に帰る兄。罪悪感が胸に溢れる。しかし初めて女を意識した妹は美しかった。
やがて妹が我が家を出ていく日がやって来る。あの日以来お互いを一人の男と女として強く意識する日々が続いていた。

別れの日、妹は兄にお世話になったとまるで嫁に嫁ぐ娘のような挨拶を交わす。いつでもまた会えるよと笑っていうと『お兄ちゃんのこと愛しているから』と意味深長な言葉を残し、深々とお辞儀をして離れていった。最後に兄は二人の大切にしていたアルバムを妹に託すのだった。

それからしばらくは新しい生活に慣れるため互いに忙しかったが、やがて妹から久しぶりに一通の手紙が届く。

そこには自分たちが血が繋がっていないことは父親に会う前から知っていて、それを伝えたら兄が遠くへ行ってしまい、自分一人がとり残されるのではとの恐怖があって口に出さなかったとあった。

兄は今一度親代わりの気持ちに戻った。母親との約束を思い出したのだった。

二人別々の生活が始まって一年半がたった。島から成人式の案内が届く。来年は妹も成人式を向かえる。お世話になった皆さんに感謝の気持ちを伝えようと島に帰る決心をする。

そんな折り季節外れの台風が直撃する。独り暮らしの自分の部屋で怖くて怯える妹。嵐の猛威は容赦なく襲いかかり、大木が折れて崩れかかり無惨にも窓ガラスが割られてしまう。

もはや耐えきれない恐怖の中で突然兄が部屋の中に飛び込んで来た。長い間あっていなかった兄。しかしさすがに妹にとっては頼りになる存在だった。

とっさにわきにあった戸板で窓をふさぎ、カーテンを丸めて隙間を埋めてなんとか嵐を遮ることが出来た。
しかし、風邪気味だった兄は突然倒れ込んでしまったのだった。大変な熱だ。すかさず妹は救急車を呼び兄のかつての恋人が勤める病院に担ぎ込まれる。

まもなく診察結果が妹に知らされる。体に相当無理を続けたらしく重い病だと聞かされる妹。

その時看護婦が兄の急変を知らせに駆けつける。全員で病室に急ぐがすでに手遅れだった。安らかな顔で兄は亡くなっていったのだった。

兄の亡骸は故郷の沖縄に運ばれしめやかにお弔いが行われた。あまりにも早すぎる死。親代わりの妹の花嫁姿も見ることはなかった。なぜか葬儀に似つかわしくないさわやかな笑顔が一層哀しみをさそうのであった。

悲しみの涙にくれる妹。海岸で一人泣いている彼女を、きっとお母さんたちと一緒に天国で見守っているだろう慰めるおばあ。

やがて妹のもとに小包が届く。差出人は兄だった。中には妹のためにわざわざ仕立てた着物が入っていて一通の手紙が添えられていた。

『カオルへ』という出だしで始まった手紙は兄の愛情に溢れていた。小さな頃から親代わりとして面倒を見てくれた兄。いつも困ったことがあると助けに来てくれた兄。自分の分まで妹に食べさせてくれた兄。

最後は嵐の中に飛び込んで助けに来てくれた兄。

妹は兄が形見に送ってくれた晴れ着を見て感謝の涙がぼろぼろと流れ落ち、胸が一杯になった。

やがてドラマはクライマックスを向かえる。夏川りみの『涙そうそう』が流れ、妹が大切にしまっていたアルバムが一ページづつ二人の思い出をたどるようにめくられていく。

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『涙そうそう』

古いアルバムめくり
ありがとうってつぶやいた
いつもいつも胸の中
励ましてくれる人よ
晴れ渡る日も 雨の日も
浮かぶあの笑顔
想い出遠くあせても
おもかげ探して
よみがえる日は 涙そうそう
(『涙そうそう』作詩:森山良子、作曲:BEGIN、歌:夏川りみ)

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私は映画を見終わって素直に泣けてきた。久しぶりである。大変清々しい感動の涙であった。

妹のために何も見返りを求めない兄の心。そしてそうした兄の深い愛情の真の意味を知り心のそこからの感謝の気持ちで胸が一杯になる妹。

一枚一枚めくられる思い出の写真。兄の優しかった面影がまぶたに焼き付いて離れない。

しかし映画を見終わって改めて、この歌詞を味わうとさらに感動が深みを増すのである。

『涙そうそう』とは沖縄の言葉で『涙がぼろぼろこぼれでる』という意味だそうである。

私も久しぶりに感動の映画で『涙そうそう』となった。いい映画との出会いであった。

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2007年11月10日 (土)

【メタボ】健康管理の6つのS

 昔聞いた落語のネタに『盗っ人の改心』をテーマにしたものがあった。
小心者の泥棒が盗みに入った家の主人の暖かい人柄にふれ、改心したはいいが、普通の人以上に超まじめになってしまうという話だ。
 お恥ずかしい話だが、わたしの健康についての姿勢もこの話とおなじだ。

 20代、30代の時はとにかくむちゃくちゃだった。酒は飲む、タバコは吸う、夜更かしはする、医者にはいかない。とにかく体に悪いことのオンパレードだった。
 それが40才をすぎて、これはまずいと思い健康診断に定期的にいくようになった。結果は長年の不摂生がたたり、あっちもこっちも悪いとこばかり。

 この日から改心した盗っ人同様、超まじめになった私は、健康管理をまじめにやるようになった。

 もともと研究熱心というか凝り性の私は、同じやるなら何事も究めたいと思い色々試行錯誤してみた。

 その結果、健康管理には『6つのS』が必要なことが解ってきた。この6つのSとは以下のものだ。

(1)食事(しょくじ)
(2)睡眠(すいみん)
(3)スポーツ
(4)サプリメント
(5)ストレス管理
(6)スマイル

(1)から(3)は、いにしえより一般に言われていることだ。ところがこのセチガラク過酷な現代社会を生き抜くには(4)から(6)のSが必要なのだ。

詳しくは後日ふれるとして、ここでは簡単に述べておこう。

ますサプリ、サプリはいいですよ。我々の食生活は洋食が中心になってから栄養の偏りが激しい。特にビタミンやミネラル、食物繊維などは、どうあがいたって食事では採れない。今では出張先にも欠かさずもっていくサプリフリークになった。

次のストレス管理は大切だ。潜在的な患者も含めると日本人の1/6がうつ病といわれる時代。色々検査してもどこも悪くないのに、体の方々が調子が悪いなどという病人が急増している。犯人はストレスだろう。心と体は深くつながっている。心身ともの健康が求められる由縁だ。

最後のスマイル。実はこれこそ最高の健康管理のSだと思う。人間、どんなに苦しい時も悲しいときも、怒れる時も不安なときも、あらゆる苦痛を乗り越え、いつも元気でにこやかに笑顔を絶やさない。
これこそ、心身ともに強靱で、文字通り真に『健康』な人しかできないことだ。しかし、我々凡人でも、作り笑顔でもいいから、笑って過ごすように心がけるとちょっとづつ気持ちがラクになってくる。
形から入るというアプローチだってありだ。

『笑うかどには福来たる』
なのだ。

『メタボ克服』の過程で一番大事なのはこの6Sのバランスをとることだと身をもって知ったのだった。

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【経営】君子財を愛す

『君子財を愛す。 
これを取るに道あり』
(住友財閥二代目総理事 伊庭貞剛)

『聖人君子たるもの金銭、名誉、権力などには目もくれず、己の志にのみただ生きるべし。』

こうした教科書的な教訓というのが昔からよくある名言の類ではなかろうか?

私利私欲を越え、我執を捨て、私心を無くす。これが君子たるものの道。

おそらく教科書どうりならその通りだろう。しかし現代社会でそれは綺麗事すぎはしないだろうか?

おそらく私心がなくせるリーダーなど1万人いて1人いるかいないかだろう。

世の中の大半はリーダーといっても、組織に属するサラリーマン経営者が大半である。家族のために給料をとらねばならない。ノルマを果たさねば出世に乗り遅れ面子もたたない。

第一、責任ある立場であれば、前年比いくら、計画比いくらと常に目標の必達が求められる。達成のためには現場を這いずり回って自ら売り歩くこともあるだろう。

そうやって組織や周囲に評価され順番に組織の階段をあがっていく。

その根底には勿論仕事のやりがいや自己実現ということもあるが、給料が上がり、地位やポストも上がり、まわりから賞賛と羨望の目で見られ、権力や名誉も手に入り、夜飲み屋に行けば店の女の子からモテモテのおまけつきかもしれない。

資本主義で激烈なグローバル競争生き抜く企業戦士に私心を無くせ、私利私欲を無くせは明らかにピントはずれかもしれない。

そこで冒頭の言葉である。『君子財を愛す』 君子はお金が好きなのだ、と最初から本音が激しく飛んできてこきみいい。綺麗ごとでない分、共感も出来る。

しかし、後に続く言葉が深いのだ。

『これを取るに道あり』

CSR(企業の社会的責任)やコンプライアンス(法的遵守)などと声高に騒いでいるが、考えてみれば当たり前のことである。

己の利益を追求することは悪いことではない。しかしそこに道(秩序、道理、意義、理念、理想)がなければ、泥棒とたいして変わらない。いや上辺を善人づらしているだけ質が悪い。

聖人君子になって私利私欲を無くせとは言わないが、人としての道、企業・組織としての道は確かに持たねばなるまい。

そうしないどテレビの記者会見でいいトシしたオッサンが惨めに、(誰が見ても誠意のない形ばかりの)おじぎする姿を毎日さらすだけで終わってしまうぞ。

家族や子供、孫たちに見られて恥ずかしいでしょ!?もう少し胸をはって生きられる人生を送りましょう。
『君子財を愛す。 
これを取るに道あり』

ですぞ!!


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