« 2007年5月20日 - 2007年5月26日 | トップページ | 2007年6月3日 - 2007年6月9日 »

2007年5月27日 - 2007年6月2日

2007年6月 1日 (金)

【モバイル】PC メールを出先で送受信

  さて前回から始めた『モバイル人間、進化の歴史』の第2回の今回は、携帯メールの話をしたい。昨日は94〜95年の技術環境の変化についてふれたが、この年もう一つ日本のモバイルにとって大きな事件が起こる。そう、阪神・淡路大震災である。

当時携帯電話は普及してきたとはいえ、全体からみればまだ一部の人間のものだったが、この震災を契機に一気に広がる。これに加えて99年になると携帯の端末買取制度と使用料に応じて収入が増えるインセンティブの導入で、店頭には1円、0円という端末がならび一気に普及。子供でも女子高生でも誰でも持てるようになったのである。

またこの年NTTDoCoMoのiモードサービスが開始される。これによって携帯からアクセスできる情報の量も質も飛躍的に伸びることとなった。

 実は私はというとこの前年の98年ころから携帯でメールを使い始めた。使い始めたきっかけは出張の多い私としては切実な問題からだった。正直言って最初は、女子高生のおもちゃぐらいにしか思っていなかった。なにしろ、アルファベットのキーボードこそビジネスマンのツールであり、電車に乗りながら片手でピッピッなどというのはどうにも邪道にしか思えなかったからだ。

 しかも当時の状況からすればパソコンで使うメールアドレスと携帯で使うアドレスとは異なるものであり、別々の管理で使っていた。つまり、携帯のメールはせいぜい親しい知り合いや家族とだけでしか使わなかった。あくまでメインはパソコンのほうだった。

 ところが、ここで大きな問題が起こった。つまり、事務所に帰りパソコンの前に向かわないと、メールの受送信ができないということだ。この問題は、割りに年配のユーザーの人には今でも当てはまることで、特に出張に出たりすると、2日も3日も返事が返ってこない。場合によっては1週間以上もなしのつぶてという人がいまでも見受けられる。メールは出来るがモバイル人間ではない人種だ。

 当時の私もまさに同じ状況だった。つまり、特別用事もないのに、メールをチェックするためだけにオフィスに戻らねばならなかった。まあ、内勤の方で年中オフィスで仕事をする人はいいが、私の場合長い場合で2〜3週間も出っ放しということがある。

 困った私は次にノートパソコンとモデムを持ち歩くようになった。しかし、これも重量が重いし、どこでも通信環境があるとは限らなかった。特に重いのは辟易した。ただでさえ疲れる出張なのにメールの確認だけのために持ち歩くのは馬鹿らしかった。

 なにかいい方法はないものか?色々と調べた挙句にたどり着いたのが、パソコンに届いたメールを携帯のアドレスに転送する機能だった。つまり今までわざわざオフィスにいって確認していたものが、出先の携帯に転送され、出張先で読むことが出来る様になる。また返信もその場でできるようになる。(この転送機能は今日大手のプロバイダーでは標準的な機能としてついている。また会社の管理するアドレスでは、会社ごとにこの機能をサポートしているところがある。詳しくは各システム担当者にお聞きいただきたい)

 この技術はある意味画期的だった。何しろ毎日メールのために事務所に行くということから開放されたからだ。メールが普及した今日、いかに早く相手に反応するか、つまりクイックリスポンスは相手に対する礼儀でもある。その意味で、これは大変便利な機能だった。

 もうひとつ大きな変化は、携帯のキーボードでの入力が格段に速くなったことだ。なにしろ携帯メールを仕事で使うということになって、アルファベットのキーボードと同様の速度まで速めないと能率が悪い。そこで必死になってトレーニングをつんだわけだ。最初は女子高生のおもちゃと思っていたものが慣れてくると、かなりのスピードでうてるようになった。いやはや、これでどんとんとモバイル人間への進化は進んだ。この携帯の入力が苦にならなくなったというひとつのスキルのお陰で、次にもう一つ上のレベルへと飛躍することが出来た。

 次の進化の段階は、iモードの徹底活用だ。この話も面白いドラマがたくさん待っていた。これについてはまた後日詳しくお話しよう。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

※【改革支援サービス一覧】皆様の改革のお役にたちます。

※【改革無料相談】改革のご相談はこちらまでお気軽に。

2007年5月31日 (木)

【モバイル】モバイル人間になろう!

 最近、モバイルとかユビキタス社会という言葉を毎日のように耳にする。携帯電話やノートパソコンをネットワークで結び世界中どこからでも高速大容量のネットワークサービスやコミュニケーションを実現しようというものだ。


フリー百科事典ウィキペディアによると、モバイル (mobile) は、可動性・移動性のという意味。従来は固定して使用した機器だが、技術の進歩により小型化され、人が携帯しながら使用できるような電子機器(携帯電話・PHSや携帯情報端末 (PDA) 、ノートパソコン等)をモバイル端末いう。

 1980年代後半NECが業務用無線機のカタログに「NECモバイルオフィス」と言う表記を使ったことから関係者に知られるようになった。

 またユビキタス社会とは「いつでも、どこでも、何でも、誰でも」がコンピューターネットワークを初めにしたネットワークにつながることにより、様々なサービスが提供され、人々の生活をより豊かにする社会である、とある。

 私自身のモバイル生活はもう古い。最初は25年前大学の授業でパソコンを使かったのが始まりだった。それから5年ほどした20年前、アメリカ留学当時、300bpsというカプラーを電話に繋いで各地からレポートを送った。恐ろしく遅かった。今と比べるとウサギとカメどころか、シャクトリムシとジェット機ぐらいの差だ。

やかで1、2年もすると携帯用のモデムが発売された。画期的だった。2400bpsMNP、はじめて文字化け防止のエラーチェック機能がつき、大事な経理データも出先から送れるようになった。

 やがてモデムの速度は9600、19200と倍ばいに加速。電話回線も高速化し、出先でも便利になったが、難点はまだ固定の電話回線が必要だった。このころ、よく公衆電話にモジュラージャックがついたものを見かけるようになった。

 大きくモバイル環境が変わりだしたのは、94〜95年前後からだろう。なんといってもインターネットの一般への活用が始まりだし、パソコンもWindows95の普及からOSの標準化が進んだ。

 そして何より携帯電話の普及の急拡大である。それまでは重く、大きく、値段も高くだったのが、技術のブレイクスルーで一般のビジネスマンが普通に仕事で使えるようになった。

 この頃のことを振り替えると懐かしい。94年夏。ある地方の得意先に2週間程出張に行ったときのことだ。当時買ったばかりのノートパソコンと携帯電話と
そして通信用のケーブルをカバンにいれて出向いた。

 もう少し精確に表現するなら、新しいまだ誰も持ってないおもちゃを買ってもらった子供が、最高に浮き浮きと誇らしげに胸を張って行進するとでも言ったほうがいいだろう。

 その時Directorというソフトを使ってデザイン関係の仕事のプロデューサーをしていた。そのため、事務所でなく一人で集中して仕事が出来る環境が欲しかった。

 その時ちょうど頃合いの静かな喫茶店を見つけた。ボックス席になっていて、周囲とは隔離されている。何時間いても怒られない。そしてこれは一番大事なことだが、電源が取れるコンセントがあること。

 とにかくここは気に入った。得意先の事務所にも歩いてすぐ行けるし、喉が乾けばすぐに頼める。周囲を気にせず集中できる。すぐさま、この空間は私の移動事務所、サテライトオフィスに変わったのだ。

 ノートパソコンを広げ、あれやこれやとケーブルやアダプタなど机一杯に広げ、自分だけの空間をつくりあげた。そしていつでも携帯で電話も出来るし、出来上がった作品は携帯を使って、サーバーにFTP(データ送信)できたし、最新情報もWEBから取れ、メールも好きなときにやりとり出来た。

 それまで、それだけの仕事をこなすには、環境が整ったオフィス、「事務所」でしか出来ないと思い込んでいた。しかしその固定観念が根底から覆されたのは次の瞬間だった。

 2、3時間集中してノートパソコンに向かい作品づくりに集中した。その後電話でスタッフを呼び、パソコンを前に打ち合せに没頭していたときだ。

 突然、携帯電話のベルがなった。相手は遠く離れた別の得意先からの講演の依頼だった。実は長期の出張だったので大阪の事務所の電話を携帯電話に転送しておいたのだ。本来なら大阪の事務所でしか取れない電話。相手も当然私が大阪にいるものとして話しているのがよく分かった。


仕事の内容を注意深く聞いて受話器をきり、ふと我に帰った時だった。今まで経験したことのない異様な感じに包まれた。

 『あれっ、俺はいまどこでなにやってんだろう。おかしい。ここは明らかに大阪じゃないし、オフィスでもない。喫茶店だ。それも遠くはなれた地方の。何故喫茶店にいて、仕事に没頭でき、会議も出来、ましてや遠くの得意先からの仕事の依頼が聞けるのだろう???』

集中し没頭していたせいか自分があたかもいつもの、大阪にある自分自身のオフィスで仕事をしている感覚だったのだろう。それが気が付けば、あろうことか出張先のそれも喫茶店なのだ。タイムスリップでもした気分だった。

 この時のことが、私のモバイル人間としての出発点であり、現体験となった。(現体験とは何かを行なうきっかけや動機となった自らの強く深い経験のこと)
 あれから、実に12年たった。一般には10年ひと昔といわれるが、ITの世界ではドッグイヤーと呼ばれ、普通の一年が7〜8倍に相当すると言われる。これは犬の1年は人間の7〜8年分に相当することからきた言葉だ。だとすれば、100年近く経った計算になる。

 いまでは私のモバイル人間も大きく進化した。まさに携帯電話による仕事変革に他ならない。

 今日からしばらく、このブログでその後の私の『モバイル人間、進化の歴史』を特集してみることにしよう。この特集は、タイトルに【モバイル】と表記し、不連続シリーズとしてお送りする。

 すぐに役立つ情報もバンバン入れていくので請うご期待!!!

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

※【改革支援サービス一覧】皆様の改革のお役にたちます。

※【改革無料相談】改革のご相談はこちらまでお気軽に。

2007年5月30日 (水)

【環境】大都会の中の田んぼ

 田植えの季節になった。稲刈りと並んで農家にとっては一番のかきいれどきで忙しい季節である。苗代で育てた苗を大切に一本一本植えていく。機械がなければ気の遠くなるしんどい作業だ。

最近都会では田んぼや畑をめったに見なくなった。たいていはマンションなどの住宅になるか駐車場になってしまう。 子供の頃、まだ田舎だった実家のまわりには田や畑、空き地や野原が一杯で遊び場に困ることはなかった。

しかし状況は一変。いまや都会の中で生活するものにとっては、田植えなどめったに目にしない。だから今が田植えの時期などと知る人も少ない。

 「宇佐美さん、田植えの時期などよくご存じですね。どちらにお住まいなんですか?」周りが田んぼだらけの余程の田舎に住んでいると思われているらしい。

 「いいえ、れっきとした大都会の真ん中ですよ!」と答えた私は少し自慢げにこう続ける。「確かに住んでいるのは町のなかですが私の住んでいるところだけまだ田んぼが残ってるんです。」

 大都会の真ん中に田んぼが?不思議であろう。種明かしをしよう。

 私の自宅は大阪でも選りすぐりの大きな通り、新御堂筋の添いにある。一般道ながら、高い高架で作られ、信号がないノンストップで、高速道路と変わらないほど素晴らしい道路だ。大阪の梅田から北摂の箕面までつながり、両脇には高層のビルが林立するいかにも都会の情景。脇には地下鉄御堂筋線が走っていて大阪一番の南北に伸びる大動脈だ。

 その一角に一ヶ所だけ今でも田んぼが車窓から見える地域が残されている。梅田から北へ向かい、新大阪、江坂をすぎると地下鉄は地上の高架を走る。窓からは両側の景色がよく見える。終点の千里中央駅から二つ手前の緑地公園駅を過ぎた辺りから、左手を御覧いただきたい。次の桃山台駅の手前、時間にして10数秒だがビルとビルの切れ間になんと、田んぼが見える。御堂筋線添いで田んぼが見えるのはここだけだ。昔からの地主の方が売らずに守り通してきた土地らしい。


 交通の便が最高なうえに自然が残るこの地を気に入り、住み着いて十年になる。毎日周りの田んぼや農作業を見ながらオフィスにむかう。四季折々の変化が素晴らしい。


 厳しい冬の時期から準備をはじめ、五月のGWのころに苗代を作りはじめる。
プラスティックのケースに栄養一杯の土に種が植えられる。やがてよちよち歩きの赤ん坊のように芽をだしかわいらしく生え揃う。母親の子宮の中のように暖かいカバーに囲まれて育つ。
5月下旬から6月上旬頃には田植えだ。この頃には、田んぼには水がはられ、カエルが大合唱を始める。高い声のソプラノ、アルトもいれば、ヒキガエルなどさしづめ低音を響かせるバスなのだろう。


やがて季節はうっとおしい梅雨をむかえる。梅雨の雨の恵みで稲は一気に元気な青年のように、まっすぐに天を向いて急成長する。


梅雨が空けると一気に真夏だ。カンカンと照りつける夏の太陽。このころの日の光がないと稲はよく育たない。害虫駆除や病気にも注意がいる。壮年のように立派に育った稲は見ていて眩しいくらいだ。


やがて秋になり、日一日とすくすく育った稲が黄金色に色付きたわわに実った稲穂はこうべを垂れる。空には無数のトンボが舞い、夜には静けさと少しの肌寒さの中でコオロギなど秋の虫たちがシンフォニーを奏でる。夏のカエルから主役の交替だ。


すずめやカラスが一年の収穫を横取りしようと狙ってくる。一本足のかかしの出番だ。最近のやつらは、普通のカカシではびくともしない。大きな目玉の風船や防護ネットで覆い尽くす。

しかし、いよいよ待ちに待った収穫だという時に決まって無情な悪魔の到来だ。台風である。直撃を受けた跡など大変だ。無惨にも薙ぎ倒された稲は地面に横たわり寝てしまう。


そしてとうとう最後に幾多の試練を乗り越えた稲穂は稲刈り、脱穀と収穫の時期を迎える。長い人生乗り越えた熟年のようにどっしりと落ち着き、たわわに実りを味わう。


刈られた稲は天日に干され、残りものにあずかろうとハトや雀が無数にやってきて、地面をついばむ。ときおり子供がイタズラをして石など投げ込もうものなら、それこそ一斉に皆飛び立ち、壮観ですらある。そして神に感謝を捧げる秋祭りを経て、冬支度をはじめる。こうして一年のドラマは幕を閉じる。

日本は季節とともに変化し、自然とともに生きる稲作文化の国である。毎日、田んぼを見ながら暮すと自分自身のDNAを強く意識させられるものだ。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

※【改革支援サービス一覧】皆様の改革のお役にたちます。

※【改革無料相談】改革のご相談はこちらまでお気軽に。

2007年5月29日 (火)

【人生】有馬温泉での新鮮な体験

 先週、家族で有馬温泉に旅行に行った。いわずと知れた天下の名湯、関西の奥座敷、秀吉もこよなく愛した日本3大名泉の一つだ。
 江戸時代の温泉番付では、東の大関(トップ)の草津温泉に対し、西の大関は常に有馬温泉だった。


 初夏の清々しい空気と若葉をめでながら、のんびりと露天風呂に浸かり、贅沢なご馳走を頂くというのは、月並みな言い方だが、素晴らしい。


 有馬温泉には「金泉」「銀泉」と呼ばれる色の異なる温泉が有名だ。金泉とは鉄分を大量に含むもので源泉からでて空気に触れることで鉄が酸化して錆びたような色に変色する。一方で銀泉は、普通の透明な色である。


 住所は神戸市北区有馬町とあるが六甲山のふもとで蓬莱峡という峡谷を上ったところにあり、土産物屋が立ち並ぶ温泉街は大変な坂にある。


 ここ有馬温泉で私が新鮮な経験をしたのは、「有馬玩具博物館」だった。ちょうど温泉街から一本中に入ったところにあるこの建物は、6階建てでしっかりとした鉄筋のビルだ。


 よく温泉街で見かける●●博物館のような子供だましと違い本格的なものだ。かつて黒いデザインで江戸末期から明治、大正と一世を風靡して海外にも有名になったからくり人形「神戸人形」。


これにちなんで作られた博物館だけあって、世界中から集めたからくり人形のコレクションは圧巻だ。100体以上のからくり人形は中の機構構造が見えて、ボタンを押すと動きだす。


 大学時代の機械工学や機構学、機械設計の授業を思わず思い出し、一体一体なかの構造を分析しながら見ていったので時間があっというまにたってしまった。

 この他にもドイツのバーデンバーデンという温泉で有名な町を模したジオラマなどは10畳間一杯くらいに広がり、本格的なコレクションで一見の価値がある。

 この他にも日本はもとよりヨーロッパを中心に本格的なブリキのおもちゃ。
ドイツの木工の手作りおもちゃ。現地でのきちんとした映像取材をもとにした、くるみわり人形の展示などなど。ITを使った映像プレゼンも効果的で説明員も分かりやすく専門的だ。海外への研修も行なうほどの熱の入れよう。思わずかたずを飲んで見入ってしまうほどである。


私がここを訪れたのは一泊二日の初日で午後2時少し前である。一階の入り口で入場料を払おうとしたら、おもちゃを手作りで作れる工作教室が今から始まるというので、思わず申し込んだ。


まずは電動の糸ノコの使い方の練習をした。直線、カーブ、鋭角のギザギザ。肩の力を抜き、板を自分の正面に置き、板をゆっくり下絵の線に沿って動かす。少々線からはみ出ても無理に力付くでもとに戻さず、ゆっくり流していく感覚。

 生まれて初めて電動糸ノコを使う私としては本当に新鮮な経験だった。とにかく集中力が求められる。下絵の線の先端をじっくり見ながらゆっくり板をうごかしていく。しかし、力が入りすぎると線からはみだしてしまう。本当に一歩一歩、というより1ミリ1ミリといった感じだ。


練習で素早くコツを掴めたと感じた私は大作に挑戦することにした。ここでは、有名なプロの方が描かれた型紙が何十種類もあり、毎回異なる作品に挑戦できる。リピーターのお客さんも多い。


 私は、16cm×16cmの正方形で厚さ2cmの板から、十二支をもとにデザインした木製パズルを選んだ。正直一番難しく、また出来上がった作品としては一番値の張るもので、挑戦しがいがあった。時間は2時間だ。

 とにかく集中力である。一度板に糸ノコを入れると一本のつながった線を切り終えるまでは集中し続けなくてはならぬ。


結果日頃の色々なことがすっきりと忘れることができた。


何しろ、ほかごとを考えでもしようものなら、すぐさま下絵の線からはみ出してしまい、無理に力を入れれば糸ノコの刃物が外れ、機械は空回りし、大変危険な状態になる。


強制的に集中すべき環境が、他の事は考えない心地よい気持ちに誘ってくれた。座禅で深く入った時の精神的トリップにも似ている。

そうしている内に、いまやっていることは、人生そのものような気がしてきた。

一枚の板全体を見て、下絵をデザインする。これは長期的視野で、ありたい自分、なりたい自分を思い描く。


しかし、その「夢」が一旦現実に目指すべき「目標」に変わった瞬間からやるべき事は変わる。


目の前を見て一歩一歩、1ミリ1ミリ。ほかごと考えず、ただひたすら集中する。そして、長い長い時間積み上げて出来上がる人生という大作。


確かに出来上がった作品を見つめて、余韻に浸るのはいい。でも、その時おもう。他ごとを忘れ、一瞬一瞬に集中しトリップしている時間の素晴らしさと懐かしさ。


結果ではなくプロセスが大事とはよくいうが、プロセスこそ楽しいのだ。その時強く実感した。また作りたい。これも人生と同じだ。
出来れば今度は自分でデザインした作品を作ってみたいものだ。


これこそ、仏教で言う「三昧の境地」(ざんまい:心を一つのものに集中させてえられる安定した穏やかな精神状態、瞑想)というのだろう。また、一つ勉強になった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

※【改革支援サービス一覧】皆様の改革のお役にたちます。

※【改革無料相談】改革のご相談はこちらまでお気軽に。

2007年5月28日 (月)

【趣味】ハマった料理〜おかゆ

 お粥との思い出は深い。子供の頃、風邪を引いたときや胃をこわした時、母親にお粥を作ってもらった思い出は誰しもあるだろう。
それから長い間、お粥といえば病人の食べるものと思い込んでいた。

しかし、この既成概念を打ち破ってくれたのは、ボストンで食べた一杯の中華粥だった。今から20年ほど前のことだ。当時向こうに留学していた日本人の友人たちに、おいしい店があるからと連れていかれたのは、中華風の屋台村のような、決してお世辞にもお洒落とは呼べない庶民的な所だった。

最近、よくスーパーの食堂街で見かけるタイプで周囲に色々な店が何件もあり、真ん中にテーブルがたくさんあってセルフで食べる感じの気楽な場所だ。

デーブルで一人待っていた私のもとに、友人達が何種類かのお薦めの中華料理を運んできてくれた。

『ここの中華がゆは絶品だよ。他ではまず食べられないな。』こう話した彼はMITのビジネススクールに留学していて、旧財閥の家系で育ち、生まれてこの方、世の中の美味いものを全て食い尽くしてきたほどの男だった。

肝心の中華粥なのだが、見た目は少し灰褐色で日本の白粥とは違う。その上にピータンがトッピングしてあるだけの極めてシンプルなものだ。食器も学校給食で出てくるような使い捨ての小さなボールみたいなものだった。

この庶民的な場末の店でここまで彼を唸らせる程の料理があるのかと半信半疑だったが、ゆっくりとスプーンを取って食べてみた。

生まれて初めて中華がゆを口にした私は、世の中にこんなうまい料理があるのかと最高に幸せになれた。

テレビのぐるめレポーターのように表現力のない私ゆえに、ここでは味について語るのはやめよう。というかほんとうに美味いものは食べてみないとわかりゃしない。ことばにすると陳腐におもえたりする。

とにかく、本当に幸せになれた一瞬だったとだけいっておこう。その時、お粥とは最高の料理だと強烈に記憶に焼き付いた。

この時のことは、若き日の青春の思い出として、しばらく記憶の片隅においやられていたが、最近、妻がお粥を作ってくれたのがきっかけで私もお粥を研究しはじめた。

水と米の分量や出汁の取り方、あわせる具の種類、煮方炊き方などなど。白がゆでも奥が深い。最近、若い女性を中心にダイエット食として人気が高いのも理解できる。少し高級なスーパーへいくと、色々なバリエーションのお粥がレトルトパックされて売られるようにもなった。驚くのはその種類の多いこと、多いこと。

今はまっている私の研究テーマはもうお分りだろう。若き日にボストンで食べた、あの中華がゆを自分の手で再現すること。なんとかもう一度食べたい、自分の手で作りたい。

追い求める理想が高いと人生おもしろいかもしれない。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

※【改革支援サービス一覧】皆様の改革のお役にたちます。

※【改革無料相談】改革のご相談はこちらまでお気軽に。

« 2007年5月20日 - 2007年5月26日 | トップページ | 2007年6月3日 - 2007年6月9日 »

2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
フォト

オンライン状態

無料ブログはココログ