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2007年10月7日 - 2007年10月13日

2007年10月12日 (金)

【名言】教えることの難しさ〜「卒啄同時」

 経営コンサルタントの仕事を始めてお蔭さまで満20年を迎える。

 20年もやっているとそれこそ色々なクライアント(コンサルティングのお客様のこと)に出会うものである。

その中には(口には絶対に出さないが)、当然こちらと波長の合う方もいれば、ちょっとこの人は合わないなというひともいる。

しかし、こちらも仕事である以上、極力相手の立場にたって相手のニーズや相手の気持ちに合わせるよう最善を尽くしている。


私は長年の経験からお客さんには実に様々な方がおられるので、どこに照準をしぼっていいのかわからない場合が時々ある。


例えば200人、300人以上の一般の人たちばかり集めた講演などがそうだ。若い人からお年寄り、家庭の主婦から経営者まで実に幅広い層があり、なかなか始めは焦点が絞りずらい。

こういう時は、なるべく一般の話をしながら、うけがいいテーマかどうかなど、相手の反応を見ながら修正していくしかない。

もうひとつ困るのが初対面かまたは一、二度会った程度でよく相手のことを知らないケースである。

この場合は、会社の概要や相手の役職、技術系か営業系か事務系かなどの仕事内容からある程度過去の経験に基づき想定して当たるしかない。

但しそれでも分からないので、相手のことがよく掴めるまでは、あまり策を労することなく、ただ自然体で素直にひたすら相手のためになることを思って聞いたり、話したりしている。

ところがどんなに努力をしても、こちらの期待に反した結果になることがある。

先日もこんなことがあった。一日に二件のお客さんとお話したのだが、その反応が全く正反対の結果となったのである。

こちらはいつものように素直な心で普通に接しているつもりなのだが、始めのお客さんは『短時間でこちらの悩みをよく理解してくれてズバリ指摘して頂いて本当に有り難かった』と涙を流さんばかりに感動していただいた。

しかしこの後のお客さんからは『言い方が厳しすぎる。もっとヤンワリと言ってもらわないと聞く気になれない』と反応が正反対なのである。

勿論、そこは20年もこの仕事をやっているので、厳しい指摘をするときは十分言葉を選び、慎重に、しかも悪いことばかり指摘されれば人間いい気はしないので、悪いことは1、良いこと2ぐらいの割合で必ず相手の長所を見つけて一緒に指摘するようにしている。

そうでないと自分がもし逆の立場になったら相手の言うことが素直に心に入って来ないからだ。今回特集で取り上げている『メタボ克服奮闘記』でもそうである。

過去何度も医者通いして、同じような指摘を繰り返し受けてきたが、不思議と同じことを言われても、この人のいうことは聞けるが、この人のいうことは聞けないなぁということを身を持って感じていたからである。

私の場合、素直に話が聞ける先生というのは不思議に決まって同じようなタイプの先生で、まず言葉は厳しいが相手に対し思いやりと愛情を感じること。

さらにキチンと筋道をたてて説明し相手が素人だからと馬鹿にして子供扱いしたり、見下して話さないこと。さらに嘘を言ったり誤魔化したりしないこと。

特に最後の点はこちらが真剣になればなるほど大切な点で少々厳しく言われても、そのことで少しでも体がよくなるならば、逆に厳しい指摘の方が有り難いものである。

要は指摘の仕方が厳しいか厳しくないかが問題なのではなく、話を聞くこちらがわの気持ちの問題なのだ。

確かにかつての私は『指摘されなくても俺はちゃんとやっているのだ。お前なんかに言われなくたって自分の体は自分で一番よく知っているんだ。医者はただ黙って診察し薬だけ出してりゃいいんだ。一体誰が金払っていると思ってるんだ。このやぶ医者め』と、今だから言えることだが、正直思っていた。

しかし、お恥ずかしい話、こちらがそういう心理状態の時はおそらくどんな名医でも私の治療は難しかったようにおもう。何よりも体の前に心が病んでいて一切のものを受け入れようとしないからだ。自分にとって耳障りの良いことは聞いてもそれ以外のことは拒絶する。これではどんな名医でも歯がたたない。

こうしたことをつらつら考えているとズバリこのことを現した言葉を思い出した。

それは下に詳しく説明した卒啄同時 (そったくどうじ)と言う言葉である。

もともとは曹洞宗の開祖、道元の言葉であり、親と子供、あるいは弟子と師匠、あるいは夫婦や兄弟、上司と部下、あるいは商売における売り手と買い手というように両者の気持ちと呼吸がピッタリと一致しないと、上手くことが運ばないものや関係に対する深い教えである。

私も今回改めて自省したが皆さんも一度素直に自らの棚卸しをしてみてはいかがだろうか?

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【卒啄同時 (そったくどうじ)】(故事成語辞典より)

 卵の中からヒナが殻を破って生まれ出ようとする瞬間、内側からヒナが殻をつつくのを「そつ」、外から親鳥がつつくのを「啄」という。このタイミングが合わないとヒナは死んでしまう。この自然の不思議さを表現した言葉が「卒啄同時」である。「卒啄の迅機」ともいう。禅の世界では、師匠と弟子の間で佛法を相続、伝授するときに使われる大切な言葉である。師匠から弟子へと伝えられている佛法を、コップの水に例え、「一器の水を一器のうつわに移すがごとく」と表現している。弟子の器が小さ過ぎると水(佛法)はこぼれてしまう。器が大き過ぎると物足りないものである。絶妙のタイミングが要求される。師匠の悟りの力量と弟子の悟りの力量が、同等でなければならないのである。ヒナに力がないとき、親鳥が啄(つつ)けばヒナは死んでしまうのである。反対に親鳥に啄く力がないときも、ヒナは死んでしまうのである。ここで問題となることは、タイミングを間違えるとどちらの場合も、ヒナが死んでしまうということである。弟子の立場からいえばたまったものではない
。しかし、どう理屈を並べようが、どうしようもない立場なのである。師匠は師匠であり、弟子は弟子である。この立場が混乱してしまい次のような逸話も生まれてくるのである。ある修行僧は師匠のもとへ押しかけ「悟りの機が熟しました。どうか、啄いて、殻を破ってください」と言った。師匠は「啄いても良いが、命は大丈夫か」と問うと、生意気にも「弟子の私が悟らなければ、師匠のあなたが物笑いになりましょう」と答えた。師匠は途端に「未熟もの」と一喝した。この一喝が師匠の「啄」であったのである。師匠の一喝は、慈悲心の表れである。


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2007年10月10日 (水)

【物語】神様を微笑ませるための秘密の法則

 昔どこかで聞いたお話で今でも脳裏に焼き付いて離れないお話をご紹介しましょう。『神様を微笑ませるための法則』というお話です。

昔、アジアからヨーロッパまで世界中をまたにかけて行商を行っていた代々続くアラブの大商人の一族があったそうです。

その家では、代々子供が成長し、この子が跡取りだと決まると周辺の部族も呼んで大々的に跡目披露の儀式を行ったそうです。

その時、前の晩にその跡取りとして一族を束ねていく男の子の信念を試すため、真夜中の12時きっかりに、秘密の儀式が行われました。

それは一族の長の他にはごく一部の血の繋がりの濃い親しいものにしか公開されません。

実はその一族が他の部族に襲撃され、滅びたためその秘密が外部にも洩れ、今日我々が知ることになりました。

そしてそれは燃えたぎった火の中で熱せられた刀で性器の一部を切り取る割礼と呼ばれるものと、この『神様を微笑ませるための法則』という代々この部族の長にしか知らされない、秘伝中の秘伝の伝授だったそうです。

全部で七つの秘伝がありましたが火事で燃えてしまい、辛うじてひとつだけ、残ったのが次の言葉だったそうです。

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『神様を微笑ませる
   ための法則』

ある人が「俺ははもう限界だ、もうこれ以上無理だ」と感じたときに、残りの力を振り絞って半歩だけ前に足を出した人間にだけ神様は微笑み無限の幸せと喜びを与える

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『天は自ら助けくるものを助ける』(天は自分自身で努力するものに手助けする)と同じような言葉だが、少し違うのは「半歩だけ」という表現だ。

こちらの表現の方がより定量的だ。それに精魂尽き果てて残りの気力を振り絞って出した最後の一歩ならぬ半歩というギリギリのところが伝わってくる。

神は厳正に我々の努力の大きさを試しているのだろう。大変興味深い物語だった。


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2007年10月 8日 (月)

【人生】『鼻歌交じりの命がけ』

 仕事柄、色々な会社の経営者の方とお話しすることが多い。特に最近このブログをはじめてから、『宇佐美さん、ブログ見てますよ。』と声を掛けられることが増えて少々戸惑いと照れ臭さを感じることがある。

つい先日もある講演の講師を頼まれて出向いていった時のことだ。講演終えて一息ついていると、ある中小企業の経営者だと名乗る方が私に話しかけてきてこんなことをおっしゃるのだ。

 『宇佐美さんのホームページの中の「鼻歌交じりの命がけ」、あれいい詞ですね。本当、あれで人生開き直れました。助かりましたよ。妻からも子供からもお父さん、明るくなったって言われます。宇佐美さん、本当に有り難うございました。』と。

その時私は「そういえば昔書いた詞をサイトにのせていたな」ぐらいしか思っていなかったので、正直「こらゃ、またマズイこと書いたかな?」と思って載せてある文章を確認してみた。
この詞は、今皆さんがご覧になっている画面上のメニューの中から『大仏君の素顔』を選んでいただき、さらにその中のエッセイのコーナーに載せてある。

http://www.newport.jp/jp/WhatDaibutsu/index.html

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『鼻歌交じりの命がけ』

                              作:宇佐美泰一郎

       なあ、若者よ。
                  人生はつらい。
       でも楽しい。
                   そこが微妙なあやなのだ。

       人生は有限だ。
                必ず誰もが死ぬ。
        しかしそれを嘆いても仕方ない。

       でも私は考える。

       同じ死ぬなら
            胸を張り
                  正々堂々と
                       心の底からこう叫びたい!

      「私ほど
            幸せに満足して
                     生きた人間はいない」と。

       好きな仕事をし
                     好きな人たちに感謝され

       そして裕福とは
             言えないが
                     普通に生活もさせてもらった。

        これが人生最大の
              喜びといわずして
        なにが喜びと
                     いえるだろうか?

         テレビでは評論家が言う。
              「政府が悪い。誰々がわるいと。」

         じゃー聞こう。
                評論家のいうことを聞いて
         本当に日本は
                     変わったのだろうか?
         本当に世界は
                     変わったのだろうか?

         そろそろめざめろよ。皆!
                そして自分のために生きようよ。

    楽しい人生生きようよ。

    上司の顔色
       うかがってどうなるものでもあるまい!?

    どんなに顔色うかがっても
            首切られるときは首なんだ。

    たった一つの命だろ。
         たった一つの人生だろ。

    逃げてどうする?
         避けてどうする?

    幸せになろうよ。

    自分の命だろう?
          自分の人生だろう?

    さあ、やろうよ。

    涙はお葬式のために
          とって置こう。

    笑顔でいこうよ。

     「鼻歌交じりの命がけ」

             「鼻歌交じりの命がけ」

    さあ、皆で唄おうよ。

    君の命が見える。
           君の血潮を感じる。

    逃げるんじゃない。
          逃げてどれほどの価値があるというのだ?

    戦えよ。
      生きるんだろ?

    だったら出来るよ。
          絶対に。

    だって人間だろ?

    やれば出来るさ!?
          自信を持とう。

    さあやってみようよ!

    この長い道程のため。
          この長い道程のため。

    期待してるよ。

    さぁがんばろう!

 (※発表当時のものに一部加筆修正しました。)

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 正直、書いていた自分自身若いときの文章で多少赤面させられる。
ゴツゴツしてあらけずりで。確か落ち込んだ後輩を励ますため勢いだけで書いたものだったと思うが、やたらこの文章がいいという友人がいたのでサイトにのせた経緯がある。

 今私の目の前にいる経営者の方はこの詩に大層感動して下さり家族が幸せになったとまでおっしゃっている。何か思いもかけぬところでお役に立てたと言った感じだ。

私もこの詞のどこをどう感動し何が変わったのか?どうして幸せになれたのか興味があったので、その方の話しにしばらく注意深く耳を傾けたのだった。

すると彼はこのように話すのだった。

『宇佐美さん、私はこの詞を読むまでは何事にも一生懸命、真面目に取り組むことが一番大事だと思っていました。ですから、くる日もくる日も朝早くから夜遅くまで必死に黙々と働いていたのです。

お蔭でそれまでは裕福とはいわないまでも家族全員幸せに暮らしていました。

ところが長年取引のあった得意先から、突然一方的に取引を打ちきられ途方にくれていた時にこの詩に巡りあったのです。』

とここまで話を聞いて、ちょっと普通の話じゃないなと思いもう少し乗り出して聞いてみることにした。

この経営者は話を続けた。
『今まで私は真面目すぎたんです。真面目に働くことで必ず結果はついてくるとしんじていました。

しかし今回の理不尽な一件で思ったんです。どんなに真面目に努力しても、人生不運なことは起こるのだ。それは紛れもない事実なのだと。

そんな時に宇佐美先生の講演の中で「人間志の軸が定まると生きることのすべてが自らの仕事となる」という言葉を思いだし、そして偶然この詞を見つけ感激したのです。』

その経営者のそこからの発想の転換、意識改革は見事だった。以下はその核心が続く。

『生きることの全てが仕事。ただそのなかに生きる糧を得る部分のパートがあるというだけのこと。
 そうか人生って楽しんでいいんだ。鼻歌うたってもいいんだ。それで誰からも怒られないんだ。

 そう考えると肩の力が一気に抜け自然体になれた。無駄なことは一切考えることがなくなり、目の前の霧が晴れ渡る感じになった。

 だから、得意先でプレゼンしたり商談したりするのも、飲み屋の女の子に失恋するのも、パチンコでするのも、二日酔いでゲロ吐くのも汚い話だがウンコするのも皆同じ仕事と考えたらいい。

仕事だから真剣で命懸けにもなるが、どうでもいいといったらどうでもいいこと。

だって一々結果を追求しても、今回の一件のように結局なるようにしかならないんだ。

結果が良くても悪くても気にしたってしょうがない。
それに結果に固執しようがしまいが、期待しようがしまいが、また不安に思おうがおもうまいが、要はなるようになるだけだし、私たちが出来ることと言えば、ただやるべきこと、為すべきことを為すことだけだから。

ならばあれこれ考えるくらいなら、楽しくやった方が面白いし、第一楽しい。またどんな苦労も苦労でなくなる。

こう考えると見た目には真剣に努力しているようにみえても、やっている本人に取ってみれば、子供が目新しいパソコンのゲームを買ってもらってやっているのと同じ感覚。

気楽にそれこそ鼻歌交じりでやってみる。そうするとやること為すこと楽しくなってくる。

そしてなによりストレスなどないし、一番良いのは健康にいい。

そしてぐっすり眠れる。
そして妻が私の寝顔を見ていて、朝起きたら言うんです。

『あなたの寝顔は子供のように純真で穏やかで幸せそのものの平和な顔だ』と。
妻のその言葉が私にとって一番いいことでした。と。』

この経営者の話を聞いて、なるほど人生は奥が深く、同じひとつの出来事でも表から見るのと、裏から見るのでは全く見えるものが違うのだと改めて意識改革の重要性を痛感する一日だった。

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