« 2007年11月11日 - 2007年11月17日 | トップページ | 2007年11月25日 - 2007年12月1日 »

2007年11月18日 - 2007年11月24日

2007年11月23日 (金)

【経営】指導者研究『落合監督』(その2)〜悲願の日本一達成

 そしていよいよ待ちに待った日本シリーズがはじまった。対戦相手は前年の2006年、1勝4敗で屈辱の敗北を味わった北海道日本ハム。

 ダルビッシュ始め武田久、マイケル中村など強力な投手陣を武器に一点を守り勝つ野球は粘り強く手強い。

 第一戦はエース川上が登板。ダルビッシュとの投手戦はダルビッシュに軍配があがる。

 第二戦以降、本来の打線の粘りを取り戻したドラゴンズは3勝1敗と大手をかけ、53ぶりの日本一に後一歩と近づいた。

 しかし落合監督を始め中日の選手の中に誰一人浮かれるものはいなかった。

 敗者復活から這い上がったクライマックス・シリーズ。一度は死んだ身。なりふり構わす全力投球してきた。

 指揮をとる落合監督も二度と同じ過ちは犯したくはなかった。それほど彼の日本一に向けてのこの四年間は苦難につぐ苦難のイバラの道でもあったのだ。

 2004年のシーズン、初めて監督として中日の指揮をとる落合監督。選手全員に10%の実力の底上げを求めトレード、解雇は一切行わず現有戦力で望んだ。結果はセ・リーグ優勝。

 しかし西武ライオンズとの日本シリーズでは勝手が違った。セ・リーグペナントレースのシーズン中、大車輪の活躍で優勝に貢献した岡本投手を引っ張り過ぎて自滅。

 流れは最後までもどらず、3勝2敗と大手をかけながら逆転で優勝をのがしてしまう。この時から落合監督にとって日本シリーズ優勝へ向けてのイバラの道が始まるのである。

 ここで『日本シリーズのような短期決戦ではシーズン中と異なり勢いのある選手を使うべきだ』ということを学んだ。

 そしてディフェンディング・チャンピオンとして望んだ2005年、この年から始まったパ・リーグとの交流戦でまさかの惨敗。その年の優勝は阪神だった。

 そして捲土重来を期し、入念な交流戦への対策の上で望んだ2006年。エース川上、ベテラン山本昌、鉄壁の守護神、岩瀬ら投手陣を中心にした守り勝つ野球というドラゴンズのスタイルが確立しセ・リーグ制覇。
 ベテラン山本昌は41歳という史上最年長でのノーヒットノーランという記録を達成し最後までチームを引っ張った。

昌

 しかし、日本シリーズでは第一戦をエース川上で勝ったものの、第二戦ではその山本昌を本人がまだ行けると言うので、必要以上に投げさせ結果流れが敵陣に行ってしまい、1勝4敗と負けてしまった。

 ここでも勝機とあれば、非情に交代させることも大切だとチーム全員が学んだのであった。

 ドラゴンズにとって、また落合監督にとってそれほどまでに日本一というのは遠い遠い、心の底から恋い焦がれた困難なゴールだった。

 そして経営者としてみれば、お金を払って球場に足を運んでくれるファンであるお客様様の最大の『ニース』こそがこの日本一だったのである。

 経営者であり、指導者である落合監督はその事を誰よりも痛いほど知っていた。

 だから日本シリーズ第5戦地元ナゴヤドームでの最後の試合。自分たちの最大のお客様であるドラゴンズファンの前で日本一になること。それ以外に落合監督もチームの全員も頭の中にはなかったのだ。

落合監督胴上げ


 だから直前の8回裏まで完全試合を続けていた山井投手を変えて、ストッパー岩瀬をマウンドに送ったのだ。

 そして、ここにもう一人悲痛な気持ちでこの瞬間を迎えていた男がいた。中村紀洋である。

 彼は近鉄時代から手首と腰に持病を抱えていた。そしてドラゴンズの日本一を目指して、チームが一丸となって戦っている中で、彼は自分の体にムチをうち続けた。

 医者は『野球が出来る体ではない。直ぐに手術を』といったが一日も長くドラゴンズの一員として、また現役選手としてファンに、そして恩人落合監督に恩返しをと強く願っていた中村選手。

 そして何としても落合監督に日本一の胴上げをプレゼントしたいと願う中村紀洋は、医者の薦めも振り切り、もはや満身創痍と化した自身の体を痛め続けたのだった。

 彼のこの願いは神に通じたのか奇跡はおこった。全試合出場し、打率.444、打点3。シーズン中はチャンスに凡退が多かった彼だが、この日本シリーズでは驚異的な活躍を見せ、見事シリーズMVPに輝いた。

 試合が終わりお立ち台に登場した彼は恥ずかしそうに帽子をとり、『本当に長かった。色々なことがあった一年でした。』と、過去の苦労から落合監督に拾ってもらった数々の思い出を振り返り涙を浮かべながらこう叫んだ。

 『自分を拾って下さったドラゴンズさんに本当に感謝します。』と。

 自分のチームなのに『さん』づけはあまり考えられないが、外様の自分を温かく受け入れてくれた監督、コーチ、チームメート、ファンに対する心からの気持ちだったのだろう。


 試合後のインタビューで中村本人は『シーズン前、落合監督にお前には期待していないからな』と言われた言葉が一番心に染みたと語っている。

 それは『落合監督の独特の言い回しなのだろう。そういうことで長いブランクがある自分に過大なプレッシャーを感じさせないようにしてくれているんだ。

 それほど自分たち選手のことを気遣ってくれる監督に何としても恩返ししなければという強い気持ちが自然に湧いてきました。』と語っている。

 その後も中村紀洋はウッズの抜けたアジアシリーズでも、怪我を押して、日本の代表チームの四番打者として試合に出続け優勝に貢献した。


 落合監督は来期の中村についてインタビューにこう答えている。

 『今年は何とか野球を続けたいという気持ちと勢いの中で体力も持ったかもしれないが彼も年々歳をとるなかで、今年の秋から来年のキャンプともう一度基礎から体力を鍛え直して行けば選手としての寿命も伸びていくだろう。』と。

 王や長島のように決して野球エリートとして順風な生き方をしてこなかった苦労人、落合監督は単に目先の活躍を手放しで喜ぶことなく、選手一人一人の人生を考えて指導している。


 これが落合監督の本当の『オレ流指導方法』であり、現場の選手の一人一人が心の底から彼を慕う理由と言えるのだろう。 


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

※【改革支援サービス一覧】皆様の改革のお役にたちます。

※【改革無料相談】改革のご相談はこちらまでお気軽に。


【経営】指導者研究『落合監督』(その1)〜裸一貫からの出直し・中村紀洋選手

 プロ野球の日本シリーズ、アジアシリーズが終わった。そしていよいよ星野ジャパンが率いる北京五輪アジア予選が始まる。

 今年の日本一を決めたのは落合博満監督率いる中日ドラゴンズで実に53ぶりの日本一であった。

落合監督胴上げ

 名古屋で生まれ育った私、ダイブツ君としては長年ドラゴンズファン一筋だっただけに喜びも大きい。何しろ初めての日本一、アジア一を経験したのだから。

 ご多分に盛れず、連日テレビで関連するドラゴンズの特別番組は全て録画し何度も見て楽しんでいる。


 しかし今回は一人のファンとしてよりも、仕事の上での経営者研究、指導者研究として真剣に見ている。

 というのも今から四年前の2004年、落合博満さんがドラゴンズの監督に就任した折から、「オレ流」監督のそのユニークな采配や指導方法に興味を持ち、彼の著作はほとんど読み独自に研究をしてきた。


 監督就任以来彼は2004年からの4年間に2度のリーグ優勝を成し遂げ、3度日本シリーズに進出し、今年日本一、アジア一に輝き、名実ともに名監督の仲間入りをしたといってもいいだろう。

 彼の現役時代の活躍は誰もが知るところだ。ロッテ、中日、巨人、日本ハムと渡り歩き、まさに優勝請負人よろしく、3度の三冠王に輝く歴史上の名選手でもあった。

 そのユニークな言動やマスコミにおける無愛想な振る舞い、練習嫌いや時折球団批判とも取れる発言や本音を幹部やマスコミにぶつけ物議をかもした。

 さらに彼が現役の時、「結果を残したプロが金をとって何が悪い」と公然と言ってのけ、周囲ともめながらも日本人初の一億円プレーヤーになりながら、守銭奴のようにも思われてきた。

 常に強烈に「個」を主張し他のメンバーと群れることを嫌う一匹狼として見られた落合博満は、やがていつしか「オレ流」と呼ばれ、世間から見ると異端児扱いされるようになった。

 さらに奥さんの信子夫人も落合監督に輪をかけた強烈な個性のため、夫婦揃っての変わり者とみられることも多い。

 そんな彼だが実は誰よりも練習熱心でチームプレーを重んじ、より選手の立場に立ち、それぞれの個性を重んじる苦労人監督であることを知る人は少ないだろう。

 オリックスの清原選手、巨人の小笠原選手、ソフトバンクの松中選手など多くのプロ野球選手が心底彼のことを慕っている。

 昨年オリックスともめて退団し、テスト生、育成選手からレギュラーになり、最後は日本シリーズのMVPを獲得した中村紀洋選手も、落合監督の熱狂的信奉者であったことは有名だ。

 まだ近鉄でプレーしていたころ、自分のスタイルに迷いが生じ大きなスランプに陥っていたとき当時解説者だった落合博満から直接指導を受け、彼のビデオを擦りきれるほど見て、落合の観音打法をみて自分にあったフォームを生み出した経緯があった。

 それ以後、中村紀洋は落合信者となった。そんな彼を知る落合も彼がオリックスを退団し、行くあてもなく途方にくれていたところ、「どこまでやれるかテストだけでも受けてみろ」と沖縄キャンプに呼んだのだった。

 当時マスコミは連日中村のわがままと報道し、「どこの球団も相手にしないのは自業自得だ」とばかりに相手にしなかった。

 最初は中村には興味がないと言っていた落合監督だったが、しかし「彼も実績のあるプロ野球の宝だ。周りの偏見で一人の選手の可能性を潰すことは許されない」という信念のもと、周りの反対を押しきり彼を迎え入れた。

 かつてのパ・リーグのスター選手である中村紀洋も大リーグ挑戦等で三年間も実質的なブランクがあり体は相当に錆び付いていた。

 そんな彼に対して落合監督は「その体の錆び付きが取れたら雇うかも知れないが現段階では体力は一軍の中で最低だ。」、「選考は厳正にやる。特別待遇は一切認めない。中村が仮に入団し一軍に入ればその分若い選手が一人チャンスを失うことになる。」と断言している。

 プロである以上チャンスは皆平等であるべきだと周囲の中村を特別待遇しているのではという偏見を一蹴している。ここでも落合監督は選手の立場にたって最大限配慮した上でそれでもプロとしての厳しさを貫いているのだ。

 裸一貫から必死にグラウンドを駆け回るかつてのスター選手、中村紀洋選手。テスト生から、育成選手、また正式な入団、二軍戦初出場、そして一軍選手登録と好奇の目で見る世間やマスコミを尻目に、中村は連日子供のような素直な心で必死に白球を追いかけた。

 落合監督同様、中村紀洋もこうと言い出すとどこまでも自分の考え方を貫く性格で、周りとの協調性に欠け、そのため近鉄時代から何度も球団と対立を繰り返してきた。

 当初誰もが「ノリは最初はしおらしくしているだろうが必ず活躍し始めたらワガママな昔に戻り必ずチームの中で揉め事を起こすに違いない」と思っていた。

 しかし実際は違っていた。彼は丸裸になって出直せたこと以上に、誰よりも信頼し慕っている落合監督や、路頭に迷っていた自分に救いの手を差しのべてくれた球団に純粋に恩返しをしたかったのだ。

 やがて立浪や山本昌などベテラン始めチームメート全員が温かく彼を迎え入れた。最初は彼のためにポジションを奪われたことで反発もあったが、しかし中村のひた向きな姿勢は皆の心に伝わった。

 外様の彼が真にチームの一員となれた瞬間であった。

 しかし今年2007年のペナントレースは巨人の優勝に終わった。最後までペナントレースを征しての優勝にこだわった落合監督。

 一度はマジック点灯まで行き優勝まで後一歩にまで迫りながら、もう少しのところでゴールには至らなかった。やはり日本一の壁はここでも遠かった。

 ペナントを巨人に奪われ、頭を丸めた落合監督。「我々にはもはや失うものはありません。全身全霊を傾けて戦います。」そうファンに約束した言葉は嘘ではなかった。

 その日から中日の奇跡の快進撃が始まる。クライマックスシリーズ、阪神に2連勝、そしてリーグ優勝した巨人に対しても3連勝で日本シリーズ進出を決める。

 プロとしてのケジメを誰よりも重んじる落合監督は敵地東京ドームのファンや選手に対して、「あくまでもセ・リーグを征したチャンピオンはあなたたちだ」と敬意を表して、胴上げは行わなかった。

 「正々堂々と勝ち抜いてこそ真の勝利なのだ。来年また勝つべき目標が出来た。」とプロとして勝ちに最後までこだわる姿勢を貫いた。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

【メルマガ登録希望】と書いて今すぐメールを!

《ダイブツ君絵描き歌》

2007年11月18日 (日)

【人生】七五三と『とおらゃんせ』

 先週11月15日は七五三のお祭りであった。全国の神社やお寺には綺麗に着飾った小さな子供たちが両親に連れられ千歳飴を手にして晴れがましくお詣りする風景をよく目にした。

 子供の成長を祝って昔からある伝統な年中行事であり、毎年男の子は五歳、女の子は三歳と七歳の年の11月15日に行われる。

 元来は関東圏における地方風俗だったらしいが、やがて全国に広がったものだ。

 七五三が今日のように行われるようになった理由はなんだろうか?

 まず旧暦の15日はかつては暦の上からも満月の日に当たり、何事をするにも吉であるとされた。

 また、旧暦の11月は秋祭りが終わりお米の収獲を終えて神に感謝する月であり、その月の15日に子供の成長を感謝しお詣りするようになりこの日に決められたのである。

 それでは何故七歳、五歳、三歳なのであろうか?これにも諸説あるものの昔からのしきたりで、子供が年齢を経て成長しどんどんと大人になるに従って着衣や装いを変えていったことから以下のような説明が一般的である。

 まず三歳は髪を伸ばす髪置、五歳は初めて袴をつける袴着、七歳は、それまでの子供用の紐付きから本仕立ての着物と丸帯という大人の装いに変える帯解・紐落しという行事がもとになっている。

 昔から一、三、五、七などの奇数を縁起の良い数とする中国の思想の影響もある。女の子の桃の節句は三月三日、男の子の端午の節句は五月五日というのもこの思想から来ている。

 七五三と言えばつきものの千歳飴。もとは親が子供の健やかな成長と長寿を願い細く長く作ったとされている。

 その理由として昔は子供の体は大変弱く少しのことですぐに病気になり死んでしまった。そこで体もしっかりして来た七歳に神様にそれまで無事にお守り頂いたというお礼にお宮参りするのが習わしだったということも理由の一つに上げられている。

 皆さん童謡の『とうりゃんせ』の歌詞を思い出して頂きたい。この中に『この子の七つのお祝いにお札(ふだ)を納めに詣ります』というフレーズが出てくるがこれがまさにこのお礼参りのことなのである。

ところで皆さんこの『とおりゃんせ』の話について怖い伝説があるのはご存じだろうか?この歌には昔から様々な言い伝えがあり伝説となっている。

 折角のチャンスでもあるので今日はその伝説についてお話してみることにしよう。まずは子供の頃に唄った『とおりゃんせ』の歌詞を思い出してみることにしよう。

「♪とうりゃんせ、とうりゃんせ。ここはどこの細道じゃ。天神様の細道じゃ。ちょっと通してくだしゃんせ。御用のないものとおしゃせぬ。この子の七つのお祝いに、お札を納めに参ります。行きは良い良い帰りは怖い。怖いながらもとおりゃんせ、とおりゃんせ。」

 随分懐かしいフレーズだ。皆で手を繋ぎ人の手で鳥居の形を作り、この歌を歌いながら順番にその輪をくぐり遊んだのが懐かしい。
 昔はこの「とおりゃんせ」や「かごめかごめ」をやって遊ぶ子供たちをどこの公園や広場でも見かけたものである。

 もう一度歌詞を見ると不思議なことがいくつかある。何故行きは良くて帰りは怖いのか?用の無いものはどうして通してもらえないのかなどである。

 これはネットで調べると分かるが随分諸説があるようだ。

 もともとこの歌の由来については諸説ある。まず埼玉県川越市の川越城内にある三芳野神社の前にあった「とうりゃんせ」の碑に書かれた文章が有力なものの一つである。

 これを読むと寛永元年(1624)酒井忠勝によって再建されたこのお城。当時お詣りしたい神社が城内にあり普通の人の参詣は難しく「とうりゃんせ」はそのことを表現したものだと伝えられている。

 この川越説の他には、江戸時代の箱根など関所での取りしまりを、子供が真似て遊びにするようになったという関所ごっこ説も有力な説としてある。

 この他に最も有力とされるのが次の天神参り説である。もともと七歳の女の子の成長をお祝いして天神様をお詣りする七五三の行事がもとになったとする説である。

 昔から七歳になる前の子供は「神の領域」にいると言われ、不安定であった子供の魂は、七歳になって安定し、この世に定着すると考えられていたことが根っこにあるのだ。

 そのため子供が七歳になると天神様にお詣りをして「これまでは神の子として神様に守って頂いたが、これからは他に頼ることなく自らの力で災難を払いのけなさい。」と天神様から教わるのだという。

 そのため、「神様に守られていた行きはよいよいであるが、もはや神様に守ってもらえない帰りは怖い」ということになるのだ。

 七歳までは神の世界にいて、その後は人間の世界に属するというのは面白い考え方である。

 昔は数えでいうので今なら丁度小学校に上がる歳の8歳に当たるのだろう。つまり小学校に上がる前までは神の世界にいて、小学校に上がると人間の世界に入るという意味なのである。

 確かに言われてみれば、そうだろう。それまではただ毎日親のもとで遊んでいれば良かったのが、小学校に上がれば嫌でも勉強しなくてはならなくなる。

 また通信簿などを通じて評価され、回りの人とも競争しなくてはならなくなる。つまり人間世界の過酷な競争社会に飛び込むのがこの歳ということにもなる。
 そう考えるとこの七五三の行事は、我が子の成長を願い神に感謝するだけでなく、親の立場からすれば、これからこの子も「神の世界」を卒業し激烈な競争社会である「人間世界」に入ります。

 神様どうかこの子をこれからの受験戦争、出世競争、弱肉強食の地獄のような社会の中で、いつまでも子供の時のような澄んだ心を失なわず、立派に勝ち抜いて欲しいという、子供の将来を案じてのお詣りの方が素直な解釈かも知れない。

 これからは神社で七五三をお祝いする小さな子供を見かけたら、「そうか、この子もいよいよ戦闘服に着替えて競争社会に船出するのか。小さいのに大変だが是非頑張ってね。」というまた別の意味でもお祝いしてあげようと思うのであった。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

【メルマガ登録希望】と書いて今すぐメールを!

《ダイブツ君絵描き歌》

【芸術】60歳で確立した己のスタイル〜シャガール

シャガール作品
マルク・シャガール
『ロミオとジュリエット』(リトグラフ1964)

 今年は西洋近代画の巨匠、マルク・シャガール(1887-1985)の生誕120年の年に当たる。そのため全国至るところで展覧会が開かれている。昨年から千葉、青森、三重、高知。

そして現在は東京上野の森美術館、奈良県立美術館と立て続けに開催されており、すでにお出かけになられた方も多いかもしれない。

 ロシアでうまれ、画家としての才能を開花させた彼の第二の故郷でもあるフランス、パリではポンピドーセンターに於いても大々的にシャガール展が催された。

 私は正倉院展の帰りにシャガール展にたちよった。ちょうど国立博物館から歩いて奈良駅に向かう途中に奈良県立美術館がありそこで開催されている。

 普段は仕事が忙しくゆっくりと絵画など楽しむ余裕もないが、高校時代の昼休み、よく図書館に通って、ゴッホやルノアール、マネやモネといった西洋の近代画家たちの画集を楽しんだのを覚えている。

 なかでもシャガールはそのパステル調の底抜けな明るさや空飛ぶ恋人、独特のタッチの鶏などユニークなモチーフなどが好きでよく楽しんだものだ。

 豊かな色彩と幻想に満ちた彼の作品は、世界中の人々に親しまれ、作品に登場するユニークなモチーフの数々は、彼の独特の画風を決定付けている。

 空飛ぶ恋人達や花束、ロバ、鶏、サーカス、バイオリン弾き、聖書といったモチーフの数々は、いずれも深い愛情にあふれ、生命の喜びと平和への希望を人々に抱かせるのである。

シャガール作品
マルク・シャガール『赤い薔薇と恋人たち』(リトグラフ)

 しかし今回改めてシャガールの作品を見直してみて、新たな発見をすることができた。

 それは人目見れば彼の作品だと分かるあの画風であり、スタイルが確立するまでには、実に様々な紆余曲折を経ていることだ。

 彼がユダヤ人として生まれ、第一次世界大戦、ロシア革命、ナチスによるユダヤ人への弾圧、第二次世界大戦と彼が生きた過酷な時代背景の中で、彼の画風が暗い冷たい画風の時代を経て独自のスタイルを順番に確立していったことである。

 特にそれはおなじみのモチーフだけではなく、その風景画の中にその特徴がよく出てきているのだ。

 彼の芸術の源泉である生まれ故郷ロシア(現在のベラルーシ)のヴィテブスクの街並みや、「第二の故郷」と呼んだフランス・パリの華やかな景色、晩年移り住んだ地中海沿岸の美しい景色など彼の描いた風景画の作品の中にその画風であり彼の心の変化がよりくみ取れるのだ。

 ユダヤ人として生まれ、歴史の波に翻弄されながら各地を転々とした画家の生涯の軌跡。

 自身の心情を伝える重要なメッセージの中に、実は彼が彼自身のスタイルを確立するまでの変遷の鍵を読み解くことができる。

シャガール作品マルク・シャガール
『誕生日』 1915年 (ニューヨーク近代美術館蔵)

 彼が自分の絵の中に登場させる『空飛ぶ恋人たち』のモチーフなどはその典型だ。上の作品は、後に『空飛ぶ恋人たち』のモチーフとなるその原型が現れた作品である。

 彼が愛する妻のベラと結婚した直後まさに天にも昇る幸せの絶頂の時に描かれた『誕生日』という作品である。

1887年、ロシアのヴィテブスクでユダヤ商人の家庭に生まれ育ったシャガール。この作品が書かれた1915年はシャガール28歳の年で、前の年の1914年にベルリンのデア・シュトゥルム画廊で初めての個展を開き、翌年ベラと結婚し、故郷のロシアのヴィテブスクに帰郷していた時期で、彼の前半生で最も落ち着いて充実していた時期である。そしてシャガールは1922年までここに滞在する。

この絵は、彼自身の誕生日にブレゼントの花束をもらい、その喜びのあまり、二人が思わず宙に浮いてしまった様子を表している。

このころのシャガールの作品はキュービズムなどの影響を受けながらも、彼独自のスタイルを模索している最中である。

写実的な中にも彼独特の色使いや大胆なモチーフといった独自のスタイルを見つけ出そうとしている姿がかいまみえる。

実はシャガールは≪誕生日≫という作品を2度描いている。

最初は上の絵でありロシア人実業家が購入する。彼にとっては人生におけるまさに幸せの絶頂での作品だったが、しかしその後彼の落ち着いて幸せな日々は長くは続かなかった。

この作品の書かれた1915年当時は第1次世界大戦の最中だった。その証拠に彼の前後の作品にはそのことが色濃く反映された暗くて過酷な作品が多い。

 その後も彼の作品は略奪、盗難、破壊、壊滅、廃棄など数多くの試練にさらされ、多くの作品が散逸してしまっている。

 この作品もフランスで作品が勝手に持ち出され、売却されたのだった。再び同じ事態が起こることを恐れたシャガールは、1923年にこれとまったく同じサイズ内容で再び制作している。

彼の悲劇は止まるところがなく、やがてナチスによって作品すべてが焼き付くされるという、芸術家としては最も耐え難い過酷な試練にも遭遇している。

 そしてその後、彼は1922年、リトアニアでの個展を最後に生まれ故郷ロシアを去り、翌1923年、パリへ移り住む。1937年、フランス国籍を正式に取得するがナチスによる弾圧はこの頃からどんどんと酷くなっていく。1939年、カーネギー賞受賞。作品としての評価が高まる一方で次々とナチスによる破壊が繰り返される。一芸術家として居たたまれない日々が続く。1941年、ナチスからの迫害の難を逃れるためアメリカに亡命。そして1944年、30年近く連れ添った最愛の妻べラがこの世を去る。

 度重なる戦争、革命。故郷ロシアを追われ、また長年住み慣れたパリもナチスの迫害を受けて追いやられ、さらに魂を込めて創った自らの作品をことごとく焼き付くされ、今また最愛の妻までも失ったマルク・シャガール。この時、シャガール、54歳であった。

 しかし彼の心が本当に落ち着いて平穏が戻り、彼本来のスタイルが出来上がるのは、第二次世界大戦が終わってしばらくの後、彼が60歳を過ぎてからのことであった。

 彼の底抜けに明るいあの色調も幻想的な風景も、まるでどこかの絵本から飛び出てきたようなロバや鶏といった夢に溢れたあのモチーフもすべて、時代が幸せになり、彼の心にも文字通り平穏が訪れた60歳以降の作品なのだ。

 幸い彼はその後再婚もし97歳という長寿を全うし生涯2000点にもおよぶ作品を残している。

 しかし彼の前半生の時代の作品の多くは散逸したものが多く、今まで我々の目に触れないものが多かった。

 しかし、今回の展覧会ではそうした過去の作品も彼の生きた時代の順に沿って時系列的に観ることが出来た。

 このことで一人の芸術家が幾多の試練を乗り越え、齢60歳にして自分のスタイルをそれまでどのようにして確立していったか、良く理解出来るのである。

 60歳と言えば定年退職する歳である。職業人としてはもはや引退の歳だ。しかしシャガールは違った。

 60歳までが自分のスタイルを確立するための長い長い準備期間であって、そこから亡くなるまでの37年間にそれこそ誰からの束縛も迫害を受けることなく自由に絵筆をふるったのだ。

 定年になりもはや自分の人生も終わりだと嘆いているあなた。少しシャガールを見倣って「これまでは自分のスタイルを確立するための準備期間だったのだ。これからこそ人生本番だ。」と胸を張るのもいいかも知れない。

 「芸術は長し。されど人生は短し」と言われるが、シャガールの場合は芸術も長く人生も長かった。

 一人の芸術家の波乱に満ちた生涯を通じて、改めて人生と芸術の奥深さを実感させられた。
__________________

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

◆マルク・シャガール(Marc Chagall)◆

シャガール写真

【解説】(展覧会解説文より)
今年は、20世紀最大の画家の一人であるマルク・シャガール(1887-1985)の生誕120年にあたります。

シャガールは、ロシア生まれのユダヤ人で、フランス、アメリカ、メキシコで活躍します。パリに出て“色彩の魔術師”といわれるほどの豊かな色彩感覚を開花させ、詩的で豊かな色彩表現と物語性をたたえたシャガールの絵画は、世界中の人々に愛と希望を与え続けました。

シャガール写真

革命や2度の世界大戦など激動の20世紀を駆け抜けたマルク・シャガールは、さまざまな苦渋、ユダヤ人であるがゆえの迫害を受けながらも、97歳で生涯を閉じるまで多くの作品を残しています。

彼の作品は油彩をはじめ、リトグラフ、壁画、ステンドガラス、陶芸など多岐にわたります。

1922年頃から版画の制作を始め、その後生涯に渡って約2,000点にも及ぶ作品を残しています。はじめは銅版画を中心に取り組んでいましたが、第二次世界大戦後リトグラフも手がけ、鮮やかな色彩の作品を次々と生み出しました。

愛や生命への賛歌を奔放な描線と、踊る色彩で幻想的に描いたシャガールの絵画。そのシャガールの素顔に迫ります。

※お問合せシャガール展(奈良県立美術館)2007年10月6日[土]〜12月16日[日]

生誕120年記念 色彩のファンタジーシャガール展(東京 上野の森美術館)2007年10月13日(土)〜12月11日(火)


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

※【改革支援サービス一覧】皆様の改革のお役にたちます。

※【改革無料相談】改革のご相談はこちらまでお気軽に。

« 2007年11月11日 - 2007年11月17日 | トップページ | 2007年11月25日 - 2007年12月1日 »

2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
フォト

オンライン状態

無料ブログはココログ