指導者研究

2008年3月 8日 (土)

【経営】指導者研究『鈴木清一』(その7)〜今問い直す本物の経営とは?

 鈴木清一さんの『祈りの経営』とは大変厳しい『献身』がなければ、本当ではないことがお分かりいたたけただろう。

 この見返りを求めない『献身』を理解しないと信仰から来る喜びや感謝の気持ちも真に分かったことにはならない。

 それでは鈴木清一さんが『祈りの経営』によって追求しようとした『本物の経営』とは一体なんだったのだろうか?

 ここで少し視点を変えてそもそも『経営』というものの本来の意味を少し考えてみよう。

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 皆さん、国語辞典で『経営』という言葉をひいてみたことがあるだろうか?

 普通、企業経営やマネジメント、管理としての意味が一番に出てくると思うのだが意外に違う。

 まず最初に出てくるのが(1)土地を測量し、土台を据え、目標を定めて建築すること、とある。

 二つ目が(2)方針を定め、組織を整えて、目的を達成するよう持続的に事を行うこと。

 この(2)の意味が企業に使われて初めて、会社事業を営むという意味が出てきたということである。

 もともと『経営』の『経』の文字は『お経』の経、東経何度・西経何度というときに使う、縦糸という意味だ。

 何千年たとうが変わらない真理のことを『経』というのだ。

 このことは四国八十八ヶ所一番札所霊山寺の芳村超然住職も『雪のお遍路さん(試作版)』の中で詳しく触れられているので、是非ともご覧頂きたい。

 一方『経営』の『営』という字は、現実の私たちの生活、営みを指す。時には泥々したシガラミや利害対立など理屈だけではなんともならない世界での営みを意味する。

 つまり、本来の意味の経営とは仰いで天の意思に反することなく理想を目指しつつ、一方でどろどろした現実を踏まえた人間の営みのことである。

 歴史的に見ても、西洋では経営の始まりを16世紀の東インド会社とするが、我が国では異なる。

 古くは古事記や日本書紀の世界まで遡る。高天ヶ原という天の国にいた、天照大御神(あまてらすおおみかみ)からニニギの尊が天孫降臨でこの地上に降り立った時まで遡る。

 この時、有名な三種の神器とともに、天照大御神自らが、育てていたとされる『種もみ』を受けたのであった。

 この種もみを植えて、稲を育てる。これが我が国における稲作の始まりとされる。

 さらに採れたお米を神嘗祭(にいなめさい)に神に捧げ、高床式の倉庫に保管し、村全体で、神に使える神官の『管理』のもとに、生産、蓄積・保管し、分配した。

 これが我が国の『経営』の始まりである。また、そうした『神から仕かわされた命を行う事』として『仕事』という言葉が生まれたのである。

 これが日本における『経営』の定義であった。

 西洋流の貨幣経済の考え方が入ってきた明治時代以降、物質主義の行き過ぎとも相まって、『経営=金儲け』という愚かな価値観が生まれてきたが、それ以前の我が国では『仕事』や『経営』とは神に仕える厳粛なものだった。

 このことでもうお分かりだろう。実は鈴木清一さんの『祈りの経営』こそが日本における本来の経営のあり方に他ならないのである。

 ところが明治時代以降の貨幣経済、ひいては『金儲け万能』の世の中が、逆に我々の感覚を麻痺させ狂わせてしまったのだ。

 さてかつて『お客様は神様です。』という三波春男さんの有名な言葉があった。

 色々な解釈が成り立つのだろうが、この言葉を日本古来の考え方に基づいて考えるのなら、鈴木清一さんの目指したものも深く理解出来るはずである。

 鈴木清一さんの『祈りの経営 鈴木清一のことば』という本の中に『人につかえる』という次のような文章がある。

★★★★★★★★★★

『人につかえる』

     鈴木清一

 「人を助ける」とは思い上がりもはなはだしい、と気付いたときに「人につかえる」まして商売人の私は「お客様につかえる」のだ、と思ったらうなずけました。

 自主的に、自発的に「人につかえる」即ち「人様のお世話をする」自分になろう!

 なんだ、かんだ、とうまいことを言っても自分がかわいいために、自分の好きなことをしたいために、他の人をせめているのでないかという反省。

 それよりも、ざっくばらんに、どうぞ許してください、どうぞやらせて下さい。

 その代わり自分だけが喜ぶのだけではなく、私で喜ぶのならば、あなたのためにも、多くの人のためにも、私の生きている限りは「喜びのタネ」をまいてみたい。

★★★★★★★★★★

 実に鈴木清一さんの本音が出た素直な文書だと思われる。

 宗教なり信仰から考えると世のため人のためと、偉そうに大上段から人を見下ろして、「人を助ける」などと思い上がってしまう。

 しかし、所詮人間。欲もあれば弱さもある。こんな私でも商人として「お客様につかえること」は出来るはずだ。

 ならば嫌々つかえていても面白くはない。裏も表もなく「ざっくばらん」にやらせてもらおう。

 そうすれば自分にとっても最高に喜びである。それ以上に相手の人にとっても大きな喜びである。と。

 ここには見栄も外聞も偉そうなところは何もない。さらに偽善者ぶったところもなにもなく、素直にほっと出た言葉なのだろう。

 おそらくここからダスキンの企業スローガンである「喜びのタネ」という言葉が生まれたのだろう。

 最後に鈴木清一さんの追い求めた理想、つまり時代が変わっても変わらない『経』はなんだったか?

 最後にダスキンの経営理念を掲げてこの連載を終えることとしたい。どうも長い文章お付き合い有り難うございました。 

合掌

ダスキン経営理念写真:鈴木清一さん直筆のダスキン経営理念


【ダスキン経営理念】

一日一日と
  今日こそは
あなたの人生が
 新しく生まれ変わる
  チャンスです。

自分に対しては
 損と得とあらば
  損の道をゆくこと。

他人に対しては
 喜びのタネまきを
    すること。

我も他も
 物心共に豊かになり
  生き甲斐のある
  世の中にすること

 合掌


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【今回の連載でお世話になった方々と問い合わせ先】
(1)ダスキン本社広報部
 野田朋宏様
(2)ダスキン誠心館館長
 石井善子様

【参考文献】
(1)『われ損の道をゆく』
鈴木清一著、日本実業出版社発行
(2)『鈴木清一のことば』
ダスキン祈りの経営研究所、ダスキン発行
(3)『ダスキン創業物語』
岡本学著、ダスキン発行

*上記書籍に関するお問い合わせ先
 ダスキン本社広報部:TEL 06(6821)5006


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★【最高の年に最高の縁起物を!『雪のお遍路さん』】

2008年3月 7日 (金)

【経営】指導者研究『鈴木清一』(その6)〜『理念なき経営は罪である』

 さて仙涯禅師(1750〜1837)の『□△○』の絵によって、今日の企業経営には

 『政治』=□
 『経済』=○

 とならび『宗教』=△という要素が大変重要だと言うことはすでにお分かりいただけただろう。

 今ここに、鈴木清一さんの『祈りの経営』をさらに深く考える上で大変参考になる言葉があるのでご紹介しよう。

 インドのデリーのラージガードを訪れると非常に美しい記念公園がある。(写真出典)

記念公園写真:デリーの記念公園

 ここにあるのがインド独立の父として知られるガンジーの慰霊碑がある。

ガンジー慰霊碑写真:ガンジー慰霊碑

 この碑文には下記のように記されている

★★★★★★★★★★

【七つの社会的罪(Seven Social Sins)】

【1】理念なき政治(Politics without Principles)

【2】労働なき富(Wealth without Work)

【3】良心なき快楽(Pleasure without Conscience)

【4】人格なき学識(Knowledge without Character)

【5】道徳なき商業(Commerce without Morality)

【6】人間性なき科学(Science without Humanity)

【7】献身なき信仰(Worship without Sacrifice)

★★★★★★★★★★

 マハトマ・ガンディー(1869年-1948年)とは、ご承知のように、インド独立の父として知られ、宗教家であり、政治指導者であった。「マハートマー」とは「偉大なる魂」を意味するという。

ガンジー写真:インド独立の父 ガンディー

 彼は「非暴力・不服従」を提唱した。この思想によりイギリスの勢力に徹底的に抵抗し、多くの苦難の末に最終的に独立を勝ち取った。

 彼も鈴木清一さんと同じように深い宗教家としての境地から発想し行動していた。

 このガンジーの言葉のうちでも特に『【1】理念なき政治』と『【7】献身なき信仰』の2つが一番重要な言葉であろう。

 【1】理念なき政治とはまさに『□△○』の中でいう□の政治には、理念すなわち△としての宗教=真理、理念こそが必要不可欠という意味だ。

 ガンジーもまさに仙涯や弘法大師の考え方に共通しているといえるだろう。

 そしてもう一つ重要なのが、【7】献身なき信仰である。鈴木清一さんの生涯を振り返った時、なんといっても一燈園のトイレ掃除の厳しい托鉢修行を抜きに語れない。

 ガンジーも鈴木清一さんと同様、単なる思想家ではなく、実際の社会の中における活動家である。

 それゆえに、この『献身なき信仰』という言葉は奥が深い。

 つまり、ご利益頂戴や単に手を合わせたり念仏を唱えるだけの信仰は、真の信仰とは呼べない。

 鈴木清一さんの『祈りの経営』とは厳しい現実の中で、自分を犠牲にしてでもという実践としての『献身』が求められるのだ。


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★【最高の年に最高の縁起物を!】『雪のお遍路さん』

2008年3月 4日 (火)

【経営】指導者研究『鈴木清一』(その5)〜□△○祈りの大切さ

 『最大の名誉は決して倒れないことではない。倒れるたびに起き上がることである。』とは孔子の言葉である。

 一旦地獄を見て這い上がってきた人間はそれだけで、とてつもなく力強いものである。

 松下幸之助さんも終戦後の財閥指定による苦難を乗り越えた後は、折からの高度経済成長や三種の神器と言われた家電ブームにものり、奇跡の経済成長を成し遂げた。

 と同時に鈴木清一さんもダスキンの創業後は文字通り破竹の勢いで経済発展を成し遂げた。

 ダスキンのフランチャイズ店の全国展開、ミスタードーナツとの提携、全国展開。そして世界で有名なフランチャイズチェーンに贈られる賞の受賞。

 『喜びのタネをまこう』というスローガン同様、全国に鈴木清一さんの経営思想に共感したオーナーさんや、働きさんと呼ばれる従業員の人々の輪が急速に広がっていったのである。

 私も何本か実際に鈴木清一さんのお話になる姿のビデオを研究したが、最も驚かされたのは、その情熱と気迫に溢れた話し方だった。

 かつて学生時代に雄弁会にはまって学校の勉強はほったらかしにしたほどの人だけに、その話し方は流暢でよどみない。

 初めは宗教家として物静かで穏やかな内向的な人をイメージしていたのだが、明らかに期待は裏切られた。

 彼の語りは宗教家というよりも革命運動の若き指導者のごとき様相である。

 当時としては比較的上背もあり、すっきりスリムな体型で、顎には洒落た白い髭を蓄え、蝶ネクタイなどをつけた姿は英国紳士のようですらある。

 しかし一方で革命運動の若き指導者然とした語り口でエネルギッシュに圧倒する話し方。

 そして滔々と自分の信念と理想を訴える姿は、そこらの金儲け一辺倒の経営者とは全く一線を画している。

 先にお話しした資料館には様々な鈴木清一さんの生前の遺物が展示されている。

 よく観察して見ると、手帳にしろメモにしろ、紙の大きさ一杯にビッシリ文字が詰まっていて、その繊細でデリケートな一面が窺い知れる。

 驚いたのは鈴木清一さんの使った手帳の展示の前にはなんと虫眼鏡がおいてある。それくらい小さな文字がびっしりと詰め込まれているのだ。

 若いときに友人と同人誌を作り自らガリバンを刷って昼夜なく打ち込んだという経験からか、実に多くの文章や詩歌を直筆でしたためられている。

 こうした遺品をじっくりと眺めれば眺めるほど私は一つの確信を得るのだった。

 それは鈴木清一さんの本質は神経質で内気な文学青年であり、壮絶な経験と宗教による祈りの強さによって計り知れね程のエネルギーと信念を『後天的に』身に付けたとしか私には思えないのだった。

★★★★★★★★★★

 さて鈴木清一さんの成功の秘密を色々探ってきたが、その『祈りの経営』から来る信念の強さに最大の秘密があることがわかった。

 しかし生きてこられた時代背景や生い立ちから、『宗教』や『祈り』が重要なファクターであるのは頭では理解できる。

 しかし疑問なのは何故祈りが必要であり、どういう効果があるかということだろう?

 この話をするときにいつも私が思い浮かべる一枚の絵がある。それは下の仙涯禅師(1750〜1837)という江戸時代の臨済宗のお坊さんが書かれた絵である。

Sengai3写真;仙涯禅師作『□△○』

 かつて出光のガソリンスタンドにこのマークが描かれていたことがあるのでご存知の方もお見えになるだろう。

 この絵は出光興産の創業者である出光佐三さんがつくられた出光美術館に所蔵されているものである。

 実はこの絵が何を意味するかは描いた本人の仙涯禅師は何も語っていない。

 そこで出光佐三はこの絵を海外に紹介するとき、自ら広大無辺という意味の『宇宙』を表現しているとした。

 これに対し禅の教えを海外に紹介したことで知られる仏教学者の鈴木大拙はこの絵を『The Univers』として訳した。その結果、海外ではこの絵は『宇宙』として知られている。

 実はこの絵は、四国八十八ヵ所めぐりの第21番札所太龍寺にあるロープウェイにも描かれている。

 これは弘法大師の大師の教えである、

 『政治=□』
 『経済=○』
 『宗教=△』

という本来異質なものが融合して宇宙は成り立っているのだという考えをもとにしている。

 つまり宇宙の成り立ちのすべてを『経営』としてとらえた場合、

 経営=□+△+○

という方程式で表されるということだろう。


 わたしが申し上げたいのは、この『政治』、『経済』、『宗教』の3つの融合という点である。

 松下政経塾という名前のように『政経』というのはよく用いられるが、これに宗教が加わった組み合わせというのは確かに異質なもの同士だろう。

 さてそれではこの弘法大師の教えは、現実の企業経営の世界では一体どのように解釈したらよいだろうか?

 私は下記のように考えている。すなわち企業という一つの宇宙を考えてみよう。

 当然そこにはメーカーならば『開発』、『生産』、『販売』。流通業なら『仕入』、『販売』などのラインの業務が中心となる。

 これに『人事』、『総務』、『経理』などスタッフ系の仕事。

 また『物流』、『情報システム』、『サービス』などの仕事が存在するわけである。

 こうした要素すべてが融合して企業という一つの組織の機能、すなわち『宇宙』が成り立っているといえる。

 しかし、こうして細分化された機能も突き詰めれば、すべて『人と組織の問題』をどうするか?という点。

 それと『お金の問題』をどうするか?という2つの問題に集約出来ると思われる。

 これが弘法大師の教えの『政治→人と組織』、『経済→お金』と置き換えられるだろう。

 誰もがここまでは容易に理解できると思う。

 問題は企業において『宗教』というものをどのように理解するかである。

 これは何のために経営を行うか?という経営理念や企業としての使命(ミッション)や追求すべき真理という要素だと考えられる。

 つまり企業組織における『政治→人と組織』、『経済→お金』の2つの問題ともに相反する異質なテーマだが、これらの問題を矛盾なく解決し、統合するところに『宗教』という要素が必用なのだと理解してよいだろう。

 私は多かれ少なかれ、『宗教』という心、理想、理念、正義、使命、祈り、やる気、魂、気、情熱、統合、調和というような要素は必ずどんな組織でも必要だと確信している。

 宗教を単にどこかの特定の宗派に対する信仰と狭くとらえるのではなく、もっと大きな意味で理解するとしよう。

 ならば、鈴木清一さんの目指した『祈りの経営』はどの企業にも欠かすことの出来ない不可欠な問題だと言えるだろう。

 いやともすると今日まで近代の物質主義、行きすぎた合理主義の中で、軽んじられてきた、教育や心のストレス、福祉や医療、環境の問題など社会における歪みの部分に目を向けたとき、今こそ我々の住む『宇宙』の中では『宗教』の要素が最も必要な要素といっていいだろう。

 単に年寄りが神社・仏閣で手をあわせて拝み、祈るという表面や形式のみに囚われると『まっこうくさい』とか『年寄りくさい』、『胡散臭い』、『偏っている』となる。

 しかし『祈りの経営』を広い意味でとらえることこそ今日の企業には一番大切なことである。

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★【最高の年に最高の縁起物を!】『雪のお遍路さん』

2008年3月 2日 (日)

【経営】指導者研究『鈴木清一』(その4)〜裸一貫からの出直し

 『狭き門より入れ』(新約聖書マタイ福音書第7章第13節)は聖書の中の有名な言葉である。

 信仰の世界においては誘惑か多い安易な道でなく、己の欲望を厳しく律する狭い道を敢えて選択せよ、という教えである。

 これが宗教の世界のことならば理解も出来るが、厳しい利害の対立するビジネスの世界でとなら話しは違ってくる。

 しかし、ここに『得と損の二つの道があれば私は敢えて“損の道”を取る』と断言する経営者がいたとしたら、あなたはどう思うだろうか?

 それもビジネスの世界で破れ、無一文の丸裸になった経済的に一番辛い時期にこの言葉を信念を持って語ったとしたら?

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

 エバンス博士と出会い、またその紹介で知り合った人から思いもよらず、ダスキンの骨格となる技術を無償で手にした鈴木清一さん。

 すべてが順風満帆に行っているかに思えたのだった。

 彼の技術力の高さと経営のユニークさ、素晴らしさはマスコミにも多いに取り上げられ、彼の企業『ケントク』は有名な企業へと成長していた。

 そんな時、アメリカで当時一番のワックスメーカーだったS・C・ジョンソン社から提携の申し出があった。

 これに感激し承諾した鈴木清一さんは契約を行うことになった。しかし元来生真面目一本で経営してきた鈴木清一さん。

 資本の力を背景に、何事も金、金、金のアメリカ流のやり方は根本的に合わなかったのだ。

 そして副社長として乗り込んできたハロルド・ディーンなる人物にいいように会社は操られてしまう。

 ことあるごとにアメリカ流のやり方を押し付けるディーン副社長。

 すべての権限を取り上げられて、もはや社長とは名ばかりだった鈴木清一さんはイエス、イエスと言うことを聞くしかなかったのだった。

 とりわけ創業以来、会社を束ねる柱として続けてきた『勤行』という『般若心経』を読む朝晩のお祈りも非合理だとして止めさせられてしまった。

 真面目一筋でやってきた鈴木清一さんにとって、これは正に晴天の霹靂と呼ぶしかない出来事だった。

 とうとう彼はついに彼が創業したケントクの代表の座から追われ丸裸となってしまう。

 そして1963(昭和38)年、ダスキンとして、私の事務所のある大阪府吹田市江坂の地で、新しく裸一貫から出直すことになる。

 鈴木清一さん51歳の歳のことである。当初、社名を『株式会社ぞうきん』にしたかったそうだが、ダストコントロールとぞうきんの造語で『ダスキン』とつけられた。

 しかし、この裸一貫からやり直しを行った創業者の精神を賞し、『脱(だつ)』『皮(スキン)』でダスキンとする意味も加えられた。

 新たに始める吹田の工場の資金は従業員が貯めていた、わずかばかりの退職金を借りて充てている。

 鈴木清一さんはその時のことをその著『鈴木清一のことば』(ダスキン発行)の中で自らこう語っている。

 『私が丸裸でケントクを追われた時、働きさん(従業員)たちは自分のもらった退職金とかつて私が分けてあげた1500万円を「社長さんに預けます」と言って私に差し出してくれました。』

 『忘れもしません。昭和38年11月16日、私はこの働きさんたちからの借金で大阪の吹田に工場を作ったのでございます。』

 『真っ黒になった雑巾をきれいに洗ってクスリをつけるというクリーニング工場です。これが現在のダスキンでございますが。』と。

 この時の工場で使われた洗濯機は現在、ダスキンの社内向け、およびFC店向けの研修が行われている『ダスキン誠心館』の中に新しく作られた資料館に収めされている。

ダスキン誠心館写真:ダスキン誠心館

 私もダスキン本社広報と誠心館館長など関係者の方々のご厚意で特別に見学させてもらったが、ずいぶん時代を感じさせるものだったが、今でも動くそうでビックリした。

 アメリカ製の機械なのだが何故かモーターは日本製だった。大きさはよくコインランドリーで見掛ける業務用のものをドラムだけむき出しにして、少しこぶりにしたくらいのものだ。

 ダスキンの歴史を創業者とともに歩いたのだと思い感慨深さを感じた。


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 さて昔から『縁は異なもの』とはよく言ったものだ。私が大変驚いたのは、実は松下幸之助さんも終戦後1946(昭和21)年GHQによる財閥指定を受け、すべての資産が凍結され丸裸になったのが、ちょうど鈴木清一さんと同じ51歳の時だった。

 肺の病から奇跡的に立ち直ったこと、強い宗教色と崇高な経営理念といい、また51歳にしての裸一貫からの出直し。

 また、ともに大阪で事業を成功させた創業者だということ、生まれた家はともに貧しく、大学は出ておらず商ない(あきない)の道で修行していること。

 そしてお二人ともに明治の生まれだということといい、二人の共通点は驚くほど多くビックリさせられる。

 いずれにしても、この裸一貫になった時の言葉が冒頭の『われ損の道をとる』という言葉だから、さらに驚きである。

 彼自身がこの言葉の意味を下のように解説している。

 『利害がからんだ時、自分の立場からは、あえて「損の道をゆくこと」を選びます。

 この表現は、よく世間でいう「損して得とれ」という次元の表現ではありません。

 企業の中の人間は、ともすれば経済的合理性の追求一本槍となって、人間全体を見失いがちですが人間性を何よりも大事にしたいのです。』と。

 自分の取った選択に信念と本当の自信がなければ、ビジネスに破れ、矢折れた状態で断言できる言葉ではない。

 『祈りの経営』とは我々凡人にははかり知れねほどの精神的な強靭さを鈴木清一さんにあたえたようである。


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★【最高の年に最高の縁起物を!『雪のお遍路さん』】

【経営】指導者研究『鈴木清一』(その3)〜エバンス博士と祈りの経営

 さて一燈園から自宅に帰った鈴木清一さんは以前とは別人のように生まれ変わった。

 強い信仰心から生まれる信念と持ち前のアイデアマンの特長を活かして、まさに破竹の勢いで活躍するのだった。

 その後の彼の足取りをおってみるとひと目でおわかりいただけるだろう。

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鈴木清一創業者の足跡より

1939(昭和14)年
 戦争で輸入困難となった蝋の代用品として「URワックス」を開発。

1940(昭和15)年
 さらに本格的な代用蝋「高度ワックス」を開発。日本の特殊蝋開発の第一人者として名声が高まる。

1942(昭和17)年
 川原商店勤務の傍ら、「高度ワックス配給協議会」専務理事として全国の関係者 200余名を集めた懇談会を開催。さらに「高度ワックス」を原料として日本初の板の間用艶だしワックス「ビギーナ」を開発。

1943(昭和18)年
 西田天香氏に随行旅行。帰国を期に「道と経済の合一」の実現をめざす独立開業を決意。

1944(昭和19)年
 ツヤ出しワックスが水溶性切削油になるヒントを得て、争いのない“拝み合いの会社”をめざすユシロ航空油剤製造株式会社を設立。祈りの経営の第一歩。

1945(昭和20)年
 終戦とともに亡き友人の法名“一燈園謙徳恭像居士”から社名をケントク産業株式会社と改める。

1950(昭和25)年
 株式会社ケントクと改名し、本社を愛知から大阪に移転。“板の間廊下のツヤ出しケントク”を積極的に売り出す。

1958(昭和33)年
 ビルメンテナンスや清掃用品の販売を行う株式会社ケントク新生舎を設立。

1959(昭和34)年
 キリスト教精神に基づく企業の民主化を進めるDIA運動の創始者エヴァンズ博士の講演に感銘を受ける。
エバンス博士写真:エバンス博士

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 このエバンス博士との出会いこそ鈴木清一さんにとってその後のダスキンにおける飛躍と『祈りの経営』をさらに深める決定的なものとなった。

 メルビン・J・エバンス博士(1890〜1968)は、アメリカ、ウィスコンシン大学卒業。哲学博士。長年のビジネス経験から企業の運営は人、とくにリーダーの人間性にあるとしてキリスト教精神にもとづくDIA (Democracy In Action)運動を提唱した人物。

 この運動は民主的な人の扱い方を通じて、そこに働く従業員の企業に対する協力を強めようとする運動である。

 鈴木清一さんは奈良で開催されたセミナーでエバンス博士と初めて出会う。

 実はその後、鈴木清一さんは1961(昭和36)年DIA出席のため渡米。

 エヴァンズ博士から紹介されたカナダのメンデルソン氏と友情を結び、無償でダストコントロール事業の技術を伝授されるのであった。

 これこそが後のダスキンの事業の骨格となる。帰国後ただちにダストコントロール事業に着手。

 活性剤を用いて繊維に油類を吸着させる「含油繊維の製造方法」を特許出願し、商品試作にも成功して現在のダストコントロール商品の原形となる商品が誕生するのだった。

 このエバンス博士との運命的出会いにおいて鈴木清一さんは大きく二つのものを学んだ。

 一つは『幸福の4条件』というエバンス博士の理論であり、DIA (Democracy In Action)運動のもとになる考え方である。

 『人間が生きていくには4つの要素が必要である。それは(1)仕事(2)家庭(3)趣味。最後に(4)宗教、つまり祈りである。どんな人も宗教、宗派のいかんに係わらず神への祈りは最も大切なことである。』

 さらに鈴木清一さんがエバンス博士から学んだもののもう一つは『42番目の赤帽さん』という宗教の大切さについての具体的な事例であった。

このお話は下記のようなものだった。

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“42番目の赤帽さん”
(『ダスキン創業物語』岡本学著、ダスキン祈りの経営研究所発行より)

赤帽さん写真:ラルストン・C・ヤングさん

 42番目の赤帽さんというのはニューヨークのグランドセントラル駅で働く黒人労働者、ラルストン・C・ヤングさんについての実話であった。ちなみに42番は赤帽荷役係の固有番号である。

 彼は優秀な成績で大学を卒業し、一流会社で知的労働につくことを希望した。

 早速各方面に就職依頼の手紙を書き送ってみると、ある企業から返事がきた。

 しかし喜び勇んで出掛けた彼を待っていたのは、“黒人”への偏見からくる白人受付嬢の冷たい態度であり、困惑した人事部長の丁重な断りの言葉であった。

 やむなく彼は赤帽荷役の仕事につくことになった。

 仕事に興味は持てず、彼の態度は投げやりになり、仲間のいない生活空間は次第にしらじらしいものになっていった。

 そういうとき教会に通っていた彼の心を一変させたのは新訳聖書の中の言葉、
『汝らの仇を愛し、汝らを責める者のために祈れ』(マタイ伝第5章)であった。

 彼は自分を“黒人”とさげすむ相手でもこちらから積極的に愛することはできる、と考えた。

 自分に荷物を持たせてくださるお客様のために祈ろうと彼は決意したのだ。

 ある日手押し車に乗った老婦人が客になった。彼は祈った。

 『神様、このおばあちゃんがお恵みを豊かにお受けになりますように・・・・・』

 ふとみると彼女は肩を落として泣いている。彼はなおも祈り続けた。するとまったく自然に神に導かれたような言葉が口をついて出てきたのである。

 『おばあちゃん。あなたの着ていらっしゃる服、それはなんて素晴らしいのでしょう。よほど高価なものか、それともどなたからのプレゼントでしょうか?』

 一年後、見知らぬ四十がらみの婦人が彼を訪ねてきた。

 『42番の赤帽さんはあなたですね。一年前、手押し車であなたに大変ご親切にしていただいたのは私の母です。』

 『母はその後、会う人毎にこのグランドセントラル駅の42番の赤帽さんの深いご親切について語り続けていました。』

 『母は先だって亡くなりましたが、生前あの時どんなに嬉しかったかを、もしもニューヨークに出かけることがあったら、あの赤帽さんにお会いして伝えて欲しいと頼まれていました。今日は母にかわってお礼を言いに来たのです』と。

 この後、42番目の赤帽、ラルストン・C・ヤングさんは感激し仕事に打ち込み最後は大勢の人前で講話をするまでになったのだった。

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 この話しに感激した鈴木清一さんはエバンス博士を自分の会社に招き、社員の前でこの42番目の赤帽さんの話を紹介した。

 鈴木清一さんにとっては一燈園でのトイレ掃除の厳しい托鉢修行以来、自らの追い求めて来た『祈りの経営』について理論的に裏付けられた思いで意を強くしたのだった。

 さらに42番目の赤帽さんの話はまさにその具体的な事実として鈴木清一さんの胸に強く刻み付けられたのだった。

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★【最高の年に最高の縁起物を!『雪のお遍路さん』】

2008年3月 1日 (土)

【経営】指導者研究『鈴木清一』(その2)〜トイレ掃除と経営

 さて鈴木清一さんについて語る時、非常に重要なのが京都にある西田天香さんの創られた一燈園での托鉢修行の体験である。

西田天香さん写真:一燈園 西田天香師

 とりわけ縁もゆかりもない家々を訪ね歩いてトイレ掃除をさせてもらう托鉢修行は大変厳しいものだった。

 実はこの掃除が修行である考え方も松下幸之助と全く同じ発想である。

 松下さんは85歳で松下政経塾を創られて以来しばらくお元気なうちは月に一度塾生の指導のために、大阪から神奈川県の茅ヶ崎まで起こしになられていた。

 そして毎回我々塾生に対して言われたのが『君たち掃除はきちんとやっているか?』という言葉だった。

 その理由が『掃除も出来ないものに世の中の掃除である改革など出来るものでない。』という松下さんなりの強い信念があった。

 そのため私たちが松下政経塾にいたころは、毎朝6時に起きて30分間ランニングし、その後掃除を徹底してやるという日課だった。

 とくにこの一燈園ではないがトイレ掃除はうるさく言われたものだった。中には便器を舌で舐めても平気なくらいまで綺麗にしろという先輩までいた。

 私事ごとで恐縮だが、元来私は掃除が嫌いである。お客様が来られたりする公のスペースや同居している人がいる場合をのぞけば、余り掃除はしたくない。

 だから松下幸之助の数々の教えの中で上の教えは自分の肌には馴染まない。正直今でも体質的には受け付けない。

 自分の生活する塾のトイレですら嫌だった私にとってこのトイレ掃除の托鉢修行など、『よくぞやったものだ』と鈴木清一さんや一燈園の人たちに総理大臣賞くらい差し上げたい。

掃除着姿の鈴木清一さん写真:掃除着姿の鈴木清一さん

 少し話が脱線してしまったが、それでは何故鈴木清一さんはこれほど大変な托鉢修行に身を投じることになったのであろうか?それまでの経緯について簡単に触れてみよう。

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 彼の生家は貧しく養子としてもらわれていく。しかしこの新しい家の養母がテレビの肝っ玉母さんのような人で困った人がいたらほっとけないという人だった。

 自分もそれほど裕福なわけではなかったが、とにかく困った人がいるとほっておけない人であった。

 この母親が熱心な金光教の信者でその影響で鈴木清一さんも宗教に入っていく。

 特に学校を卒業したあと就職したものの胸の病で死線をさ迷うが、この母の熱心な信仰の力で命拾いをしてからというもの、彼の信仰への情熱は一気に深まっていった。

 それまでの鈴木清一さんは文学好きで雄弁会に熱を上げるようなところはあっても、正直どこにでもいるような普通の青年だったが、この難病を乗り越えるという経験で生まれ変わる。

 それ以後というもの本当に一心に会社の仕事に打ち込む。大阪に本社がある河原商店という蝋(ろう)の卸売問屋の小さな東京の出先にいたのだが、やがて彼の働きぶりは自然に会社の上層部の目にもとまるようになる。

 そのうち本社の代表社員という幹部から娘の婿にどうかという縁談が舞い込み、本意ではなかったが苦労をかけた母への親孝行のつもりで結婚。

 これが運のつきだった。何しろ昔からいう『家付きカー付き』なんとかという安穏な立場。典型的な逆玉の輿だった。

 何をするにも保守的な義父とお嬢様育ちで世間知らずのワガママな妻に頭が上がらない生活は不自由な『婿養子』と同然。

 そうするうちに胸の病気が再発し、実家の養母のもとに帰って来たのだった。
 毎日布団の中で養生している時に読んだのが、冒頭の
西田天香さんの『懺悔の生活』という本であった。

 これに感激し、妻とは離婚を覚悟しその気持ちを手紙にしたため出奔。単身京都の一燈園での托鉢修行の道にはいったのだった。

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 ここでの修行の中でもトイレ掃除の托鉢修行は鈴木清一さんに対して大変強烈なものだった。

 来る日も来る日も見知らぬ家を訪問しては『あなたの家のトイレを掃除させてください。』とお願いして許されるとピカピカにしてまた次の家を回るというものだ。

 この経験の中で経営者、鈴木清一に生まれ変わることになる。

 飛び込みセールスを経験されたことのある方はお分かりだろう。まず扉を開け口をきいてもらえるだけでも大きな難関である。

 私も政経塾の一年生の時に経験したが大変苦労したのを強く覚えている。初めのうちは100軒回って立ち話までしてくれるのは2、3軒あればいいほうである。

 当然トイレ掃除をお願いしても警戒して断られることも多かっただろう。

 無料だと分かっていても見ず知らずの人間を自分の家の中に上げて、日頃汚くしている恥部をさらけだすわけだから、頼む方にも相当な勇気と覚悟が必要だ。

 もしあなたが逆の立場で家に訳の分からぬ宗教団体からトイレ掃除をさせてくれと訪ねてきて簡単に家に入れるだろうか?

 私が想像するに飛び込みセールスの数倍は難しいことだと思う。

 だからまずまともに口をきいてくれるだけで有難いのだ。上にあげてくれて、トイレ掃除までさせてくれるとなればその人が本当の神様に見えてくるものだ。

 彼にはこの修行を通じて人から何かしてもらおうという見返りを期待するつもりは一切なかった。

 修行をさせてもらえるだけで十分。それが『神に仕える』奉仕の意味だった。

 しかし聡明な鈴木清一さんはその奉仕が3つのご褒美がもらえるという喜びを知ったのだった。それが下の3つである。

 この経験で彼は大きく3つのことを学んでいる。

(1)自分自身のメリット

トイレ掃除を通じて自分自身の気持ちが洗われて清々しくなれるということ

(2)相手のメリットと共感

トイレ掃除を通じて人様のお役にたち感謝されることの素晴らしさ

(3)結果としての実利的成果

トイレ掃除の結果、頂けるお礼が如何に有難いものかという充実感と感謝の気持ち

 つまり鈴木清一さんの心の中を解析すると、(1)の自分自身の修行をさせて頂けるだけで有難いわけである。

 そこへもってきてトイレ掃除に打ち込むことで身も心も清々しい気持ちになれたのだ。これが第一の喜びだ。さらに他人から感謝されるという第二の喜び。

さらにお菓子なりその家でとれた野菜なり自分の腹がふくれ、空腹を癒してくれる『神様からのお下がり』が頂ける最高の喜びが頂ける。

一燈園ではこの托鉢で頂いたお下がりしか何も口に出来ない。文字通り働かざるもの食うべからず。己れの食い口は己れで稼ぐ厳しさだ。

 となれば鈴木清一さんの経験した空腹の苦しみは容易に想像できる。

 トイレ掃除をしながら何度もグーグーお腹を鳴らしていたのだろう。

 だから最後の空腹を満たす神様からの『お下がり』は有難い有難いわけである。

 最後に修行の完成のために一番の試練が待っていた。嫌で嫌でしかたがなかった義父と妻の待つ自分の家に帰ってトイレ掃除をさせてもらうというものだ。

 見栄も外聞も上辺だけのプライドも一切捨て去り、丸裸になって神に仕え、人様のお役にたつという『経営者としての筋金』が一本とおった瞬間だった。

 この時、鈴木清一さんは自分の目指す経営の原型であり、理想の姿を強烈に脳裏に焼き付けたのだった。
 『人間、神に真理に誠を尽していれば必ず人に感謝され、飯も食え、空腹も癒せる。いや真の経営とはこの道以外にない。真理に生きる“道”とお金を儲ける“経済”とは本来同じものなのだ。』そう確信した鈴木清一さん。

 これこそが今日ダスキンが目指す『道と経済の合一』という真の経営の原点であった。

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★【最高の年に最高の縁起物を!『雪のお遍路さん』】

2008年2月29日 (金)

【経営】指導者研究『鈴木清一』(その1)〜ダスキン創業物語

 中国製の毒入冷凍餃子の影響で食の安全がもう一度真剣に見直されている。

 思えば最近は赤福、船場吉兆、日本ハム、古くは不二家、雪印とここのところ老舗と呼ばれる会社の不祥事が後を絶たない。

 厳しいノルマに追われる現場と創業以来の伝統や経営理念の狭間で追い込まれて、やむにやまれず起こしてしまったのだろうが、随分後味が悪い。

 二度と起きない『仕組み』の構築と同時に、働いている各自がもう一度、経営の原点に立ち返る必要があるだろう。

 かつて私が取り組んだ松下電器の全社改革も創業者がなくなって時間がたち、経営理念が形骸化したものをいかに立て直すかが一大テーマであった。

 その意味では、日本中がもう一度経営の原点に立ち返る必要があると言えよう。

 今回指導者研究で取り上げるのは、かつてテレビのコマーシャルの金さん銀さんで話題になったダスキンの創業者である、鈴木清一さんである。

 おそらく経営理念や経営の原点を考える上で、この方ほど相応しい経営者は他にないだろう。

 ダスキンが経営するミスタードーナツ自体が、この経営の原点を忘れ、ここのところ何度も食に関する不祥事を起こしているだけに、創業者の理念を振り返ることはダスキン自体にも大きな意味があることだろう。

 実は松下幸之助の若いときの講演で『業即信仰』というものがある。下記のアドレスから実際の幸之助さんの貴重な肉声がお楽しみ頂けるので、まずはお聞きいただこう。

松下幸之助さんの肉声はこちらから→【業即信仰】(『商いのこころ』より)

 いかがだっただろうか?実はダスキンの鈴木清一さんはこの【業即信仰】という言葉を、『祈りの経営』と称して、正に現実の経営の舞台で実際に実行した稀有な人物なのである。

 その証拠に今でもダスキンは誰もが知る有名企業でありながら、毎日会社で祭壇に向かってお祈りが行われる。

 さらにまた、従業員のことは『働きさん』。お給料のことは『お下がり』、ボーナスのことを『ご供養』と社内では真顔で呼ぶ。

 こんなユニークな会社は滅多にお目にかかれないだろう。

鈴木清一ダスキンの創業の地に立つ記念碑

 まずはダスキン創業者、鈴木清一さんがどんな方なのか簡単にプロフィールを見てみることにしよう。

━━━【鈴木清一プロフィール】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

Photo写真:ダスキン創業者鈴木清一氏 1911(明治44)年、愛知県碧南市に生まれる。東京・中央商業学校を卒業後、川原商店に入社。肋膜を患い養母の愛情に救われてからその影響で金光教に入信。1938年、一燈園に身を投じ托鉢求道の生活に入る。1944年、ケントク創立。以後「道と経済の合一」を願う祈りの経営について生涯を通じて追求する。1963年、ダスキン創業。フランチャイズシステムによって画期的な流通組織を確立、おそうじ用具のレンタル事業を全国展開する。1971年、ミスタードーナツ事業の導入をはじめとする多角化によって、わが国初の複合フランチャイズ企業の道を開き、ダスキン企業集団を率いた。1980年、68歳で死去。

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 実は今回鈴木清一さんを取り上げるに至ったのは、奇妙なご縁があった。

(1)ダスキンの本社は私の事務所から徒歩3分で、ともに大阪府吹田市の江坂にあること。

ダスキン本社ビルダスキン本社ビル

(2)私も鈴木清一さんも同じ愛知県出身の同郷である。

(3)ダスキンの創業が1963(昭和38)年2月4日であり、私の誕生日1962年12月28日とほぼ2ヶ月違いなこと。→今年で満45才です。

鈴木清一ダスキンの創業の地に立つ記念塔

(4)私の師匠である松下幸之助も鈴木清一さんと同様、若いときに結核で死ぬ寸前まで行きながら、命拾いして元気になった強運の持ち主であること。

(5)松下もダスキンもともに『世のため人のため』という強固な創業者、経営理念に支えられている。

(6)松下幸之助も松下教と揶揄されるほど宗教色が強かったが鈴木清一さんのダスキンも負けず劣らず宗教色が極めて強いこと。

以上のように不思議に共通点が多かった。それがある場所で偶然鈴木清一さんのビデオを何本も観ることが出来、それ以来すっかりとファンになってしまった。
 本日からしばらくの間この鈴木清一さんの特集をお送りしたいと思います。乞うご期待!

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★【最高の年に最高の縁起物を!『雪のお遍路さん』】

2007年11月25日 (日)

【経営】指導者研究『落合監督』(その4)〜世紀の決断の評価

 今回の日本シリーズにおける落合監督のこの完全試合を前にした山井投手に対する決断に対しての評価はどのようなものだっただろうか。

 これについてはマスコミやプロ野球解説者などスポーツマスコミにおける評価はご存知のように大きく二つに分かれている。

 それでは、まず歴史的な記録を前にして夢をたたれた山井本人はどう思っているのだろうか?

 彼は試合から数日たってマスコミにこうコメントしている。「完全試合は投げている時は意識しなかった。谷繁さんがスライダーを引き出してくれた。感謝です」と謙虚に振り返る。

 8回を終えてベンチに戻ると森投手コーチから「体力的にどうや」と聞かれ「代わります。」即答した。

 「この試合は個人記録は全然気にしていません。勝利が優先。ボクも岩瀬さんに投げて欲しかった。」とケロッとしている。

 野球関係者の中では実に様々である。解説者の張本勲氏は、落合監督の決断は勝つためには当然の判断とした上で、「打者出身の者は落合監督に賛成で、投手出身の者は反対が多い。特に気の強い投手ならば何があってもマウンドに上がるだろう。それくらい完全試合は投手にとってはロマンだから。」と述べている。

 今回破れた元日本ハム監督の大沢啓二氏は「結果として勝ったのだから非常に素晴らしい決断だった。将は結果がすべて。」とのべている。

 落合監督に直接インタビューした江川卓氏は「最後は岩瀬じゃないとチームのまとまりがつかない。皆が納得する選手で最後は締めくくるべき」と賛成である。

 これに対して反対意見の代表として東北楽天の野村監督は「監督が10人いたら10人とも替えないのでは」と発言。

 また北京五輪野球日本代表監督の星野監督は「私だったら投げさせていたと思う」とするものの、「思い切った決断だった」と一定の理解を示している。

 一方かつて日本シリーズを征し日本一となった名将といわれた監督たちの判断はどうだろうか。

 元西武監督で清原、秋山、工藤、松沼らを育て上げ西武の黄金時代を築き、日本シリーズの大舞台での勝負の厳しさを知り抜いている森祇晶氏はこう語る。

「公式戦ならば迷わず続投だろう。しかし、53年ぶりの日本一が目の前まで来た。落合監督は私情を捨て、チームの悲願を確実とする采配に徹した。よくぞ決断した。おそらく過去2度の日本シリーズに(ピンチの場面で温情策をとって続投を選んで打たれた)負けた経験が、監督の決断を後押ししたのだろう」と。

 さらにWBCで世界の野球の厳しさを知り抜いている福岡ソフトバンクの王貞治監督、またかつてヤクルト、西武で監督を務め常勝軍団への基盤を作り上げた広岡達郎氏らは勝利の厳しさを知るものとして、落合監督の決断は当然の采配と断言している。

 11月13日、落合監督は、プロ野球界最高の賞である正力松太郎賞を選考委員会の満場一致で受賞した。

 その際、選考委員長であり、かつて巨人のV9を成し遂げた歴史的名監督、川上哲治氏は、「正力さんはいつも『勝負に私情をはさんではいかん』と言っておられた。日本シリーズでも勝つことに徹する強い信念が感じられた」とコメントし大変高く評価している。

 このように過去何度も日本シリーズを経験し勝負の厳しさを知り抜いた名将たちは、落合監督の決断は正しい、いやそれは勝つことがすべてのプロの世界では当然の決断だと皆共通に言い切る。

 在京のスポーツ各紙やTV局は「非情の交代」 と報じたが、それでは実際にテレビで見ているファンはどう思っているのだろうか?

 これに対して、各スポーツ誌が実際に行ったインターネット上での緊急アンケートでは、意外なことにマスコミでの報道に反して、賛成が反対を少し上回るという結果であった。

 つまりファンはマスコミの報道内容とは異なり、見ているところはきちんと見ていると言えるだろう。ここでも落合監督の決断が評価されていることが分かる。

 それでは最後に落合監督が経営者、指導者として最後まで意識した『お客様』である地元名古屋を始め全国の中日ファンのファンの反応はどうだっただろうか?

 在京、在阪のマスコミや解説者とは異なり、実際に球場に足を運び選手のグッズを買いファンクラブに入って、中日ドラゴンズという球団の売上に直接貢献してくれるのは、彼ら全国のドラゴンズのファンである。

 プロとしての収入の多くはこうしたファンの支払うお金であり、選手や監督、コーチの年俸もここから出ている以上、彼らにとってはお金を払ってくれる『本当のお客様』である。

 選手がグランドで素晴らしいプレーや感動的な試合を行うことで、さらにファン層は広がり売上も拡大するのである。

 それではその『本当のお客様』の反応はというと、53年ぶりの優勝、日本一に町中が沸き、この落合監督の決断を心から歓迎している。

 従来、落合監督に冷ややかだった一部地元マスコミや、彼に批判的だったドラゴンズOBの解説者も目の前で大きな成功を見せ付けられ、53年ぶりの日本一に沸き返るファンを前にしては、もはやなすすべはなかった。

 昨日まで落合はけしからんと言っていた輩が、掌を返したように、『さすが落合監督』ともろ手を上げて高く評価しているのである。

 現役時代から実績を残すことで世間の批判や雑音を封じ込めてきた落合監督ならではのやり方であり、彼の『お客様第一』の判断は正しかったことが明らかになった。

 今回の落合監督の決断にあれこれ批判しているのは、中日ドラゴンズとは直接関係のない、在京、在阪のマスコミや解説者が中心ということである。

 多くのファンも勝負の厳しさを知るプロの目も落合監督の決断は正しいと判断し、実際にお金を払う『本当のお客様』にも勿論大いに評価されていることがこのことで分かると思う。

 さてそれでは落合監督の決断を通じて見たとき、『指導者とはいかにあるべき』だろうか。私たちはそこから何を学びとるべきだろうか。今回の研究で以下の9つの条件が浮かび上がる。

【落合監督に見る指導者の9つの条件】

(1)『53年ぶりの日本一』という経営理念、基本方針、「お客様」であるファンを含めたチーム全体のミッションを明らかにする。

(2)その上で一番勝つ確率の高い手段をとる。岩瀬という絶対的な勝利の切り札を使う。

(3)厳しく合理的な判断を行った後に選手一人一人に「心からの情」をかける。選手の立場に立ち目先の記録もさることながら選手個々の人生のことを考える。

(4)私心を捨て、一度決断した上は、迷うことなく実行する。

(5)決断した以上、すべての責任は一切指導者自らがとる。挑戦した選手を責めたりはしない。

(6)マスコミその他周囲のの批判はすべて甘んじて受け入れる。

(7)手柄は独り占めせず、まずがんばった選手を誉める。特に山井だけでなく岩瀬の殊勲も讃える。

(8)勝負は下駄をはくまで分からない。念には念を入れ詰めを怠らない。

(9)勝つためには常に私情を捨て非情でなくてはならない。

 以上が今回の落合監督の決断から見られる「指導者の9つの条件」と言えよう。特に指導者は結果責任を求められる。

 仮に山井に代えて出した岩瀬が打たれていたならば指揮官である落合監督が全責任を負うのは当然である。その上でどうすれば少しでも勝利に近づけるか考えるのが指導者である。

 また松下幸之助も「合理的判断の後に情(なさけ)をかけよ。」というように、まずは勝つために非情になるところは徹底すべきである。

 しかし、それで終わったのでは人はついてこない。あくまで選手の人生という長期的視野にたって、その人のために何が大切かという深い愛情が必要だ。それでこそ、選手は指導者を人間として慕い尊敬し従うのである。

 山井に対して厳しい対応をとった落合監督。しかしこの試合に命をかけ、血で染まった指を隠し、痛みを堪えて投げ抜いた山井こそこの試合一番の功労者だということを知り抜いているのも、指揮官たる落合監督の他には誰もなかった。

 日本一を決めたこの試合の記念となるウィニングボール。普通ならば勝利監督の落合監督か、あるいは胴上げ投手の岩瀬投手の元に届けられるはずだが、この日は違っていた。

 この日の最高の功労者として山井投手に渡されている。「みんなは一人のために、一人はみんなのために。All for One, One for all。」

 これこそが、オレ流監督、落合博満監督の指導方針の現れなのである。


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【経営】指導者研究『落合監督』(その3)〜非情采配裏側の真実

 『もしクレオパトラの鼻が低かったら歴史はどう変わっていただろうか?』

 歴史に『もし◯◯だったら』という議論がよくあるように野球にもこの種の議論はよくなされる。

 『もし自分があの時落合監督の立場だったらどう決断していただろうか?』

 『もし山井があのまま投げ続けていたとしたらどうなっていただろうか?』

 『もしあれが山井でなくエース川上だったら落合監督は代えていただろか?』

 今回の日本シリーズではこの『もし』が何度巷で騒がれたことだろうか?それほどまでに世間の注目を集め物議をかもした日本シリーズだった。

 長いプロ野球の歴史の中でもかつてない出来事であった。

 2007年プロ野球日本シリーズ第5戦、地元名古屋ドームで3勝1敗と53年ぶりの日本一にあと1勝と迫った、中日ドラゴンズ。対するは前年の覇者、北海道日本ハムファイターズ。

 第1戦に先発したエース、ダルビッシュと肩の故障で長くブランクのあった山井の先発で試合は始まった。

 試合は2回裏、中村紀洋のセンターオーバーの二塁打、平田の犠牲フライで1点を中日が先制。

 その後はダルビッシュ、山井ともに譲らす、中日1点リードのまま手に汗握る投手戦を展開。

 中日先発の山井は得意のスタイダーが冴え渡り8回まで24人の打者を完全に抑え、一人のランナーも許さない完全な試合。

山井

 残り三人抑えればプロ野球史上初、本場アメリカ大リーグでも一度もない、日本シリーズでの完全試合を達成する所まできていた。

 先発投手の8回パーフェクトピッチングは日本シリーズの新記録(過去の最高記録は村山実(阪神)、佐々岡真司(広島)が樹立した7回1/3)である。

 9回表、球場の中日ファンから山井の続投を望む山井コールが湧き起こっていた中、落合監督は、ストッパー岩瀬仁紀への継投策を取った。

 それは日本シリーズ史上初の完全試合という金字塔への挑戦権をも“放棄”する決断だった。

 最後は守護神・岩瀬が3人で締め、継投による完全試合(参考記録扱い)を達成。日本のポストシーズンゲームにおける完全試合及びノーヒットノーランの達成は初めてであった。

 翌日の新聞は一斉に落合監督の『球史に残る非情采配』と書き立てた。しかもファンの間でも『私なら投げさせた』、『いや勝負はあれくらい非情にならなければ勝てないのだ』と賛成、反対の意見が真っ二つに別れた。

 プロ野球史上『球史に残る世紀の意思決定』。さてあなたならこの場合どちらの判断をとったであろうか?山井の続投か、それとも落合監督と同じ岩瀬へのスイッチか?

 正直判断の別れるところだろう。プロの解説者の間でも大きく判断は別れている。

 日々意思決定に追われる経営者。その判断次第で組織の命運を決する場合も多い。しかも貴方が誰にも相談出来ない最高意思決定者ならばその決断に当たっての重圧は計り知れないものである。

 ここではあの状況の中で落合監督は何を考えどう決断したのか?彼のインタビューや実際に彼自身書いたものをもとに、あの世紀の意思決定の裏側の真相に迫ってみることで指導者としてのあり方を探ってみることにしたい。

 まず色々分析を進める前に物語の主人公、山井大介投手がどんな投手なのかを見てみることにしよう。以下が彼のパーソナルデータである。

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■山井 大介(やまい・だいすけ)

山井ガッツ

【経歴】
 1978(昭和53)年5月10日、大阪府生まれ、29歳。神戸弘陵高から奈良産大、河合楽器を経て、2002年ドラフト6巡目で中日入団。1年目に6勝を挙げた。今季は14試合に登板、6勝4敗0S、防御率3.36。通算成績は5年間で84試合に登板、17勝13敗1S、防御率3.81。1メートル77、81キロ。右投げ右打ち。既婚。血液型はA型、趣味はドライブ。年俸1900万円。背番号29。

【素顔の山井大介】
 サングラスを着用している風貌がウルトラセブンにそっくりなため、ネット上ではそれがそのまま愛称となっている。球種は少ないがスライダーのキレには定評があり、直球と組み合わせてコントロールよく投げ込む。

【ここ数年の山井】
 05年はわずか3勝。昨年06年は右肩を痛め一軍登板はなし。オフに結婚したが、契約更改は合宿所でという二軍扱い。背水で迎えた春季キャンプでも、二軍のウエート室にこもり地道なトレーニングを続けた。
 その成果があって後半戦から復帰し、9月に登板5試合で4勝1敗、防御率3.00の好成績を上げ月間MVPを受賞して今季6勝。
 長年期待されながらここ数年は怪我に泣かされ、今シーズン、得意のスライダーを武器にようやく一本立ち出来たところだった。

【最近の山井の状態】
 2007年のクライマックスシリーズでは第2ステージ第1戦での先発予定も右肩痛再発のため回避し、この日本シリーズでも登板を危ぶまれていたが、なんとかこの日の第5戦に間に合い登板したが長らく投球間隔が空いていたため、首脳陣もこの日の投球を見るまでは不安があった。

【これまでの活躍】
 落合監督はインタビューの中で山井についての印象についてこう答えている。 『彼のこんな活躍を見たの僕が監督になってから3回目でしょう。
 最初は2004年、優勝争いが激しさをますペナントレース終盤の広島戦、ローテーションの谷間で左の長峰とジャンケンで先発を決めて好投した試合。

 そしてその年の日本シリーズ西武ライオンズとの第4戦に、大方の予想を裏切りまさかの完封をした試合。この2試合しか記憶にない』と語っている。

【年度別成績】
2002年 6勝3敗(率)3.93
2003年 0勝0敗(率)4.76
2004年 2勝1敗(率)3.33
2005年 3勝5敗(率)4.13
2006年 怪我で登板なし
2007年 6勝4敗(率)3.36
通算 17勝13敗(率)3.81

【投球した山井の言葉】
 「去年や前半戦のことを考えたら、こんな場所に立てるなんて…。いろいろな人に、感謝の気持ちしかないです。」

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 このデータを見る限り、正直彼のこの日の好投は本人は当然、監督、コーチの誰もが想像しなかったと言える。

 しかも試合後、この交代について山井本人がインタビューの中で、個人の記録達成は眼中になかったこと、4回にマメ(肉刺)がつぶれたことや握力が低下していたことに加え、「最後は岩瀬さんに投げてほしい」という気持から自ら降板を申し出たことを明らかにしている。

 また、落合監督も山井交代は手のマメ(肉刺)をつぶして出血していたことと右肩痛が再発してクライマックスシリーズへの登板を回避していたことだと説明した。

 後日落合監督は記者からのインタビューでの質問にこう語っている。


【落合監督インタビュー】
 「あそこは一点差の場面。一つ間違うと流れが向こうに行ってしまう大事な局面でした。だから岩瀬へのスイッチについては全く迷いはありませんでした。世間がこれほど大騒ぎするとは私の方が驚いているくらいです。」

 「みんなが完全試合を見たいのは分かる。オレだって見たい。でも山井のここ(ユニホームの右太もも部分)の血を見たら…。本人が『ダメです』と言ったらしょうがない」(注:山井は4回から血豆をつぶし皆には内緒で痛みを必死にこらえて8回までマウンドにたっていた。)

 「完全試合といってもそれは個人の記録でしょ。それも大事かも知れないが、我々のお客様であるドラゴンズファンにとっては日本一こそ最大の望み。そこのところを天秤にかければ迷うことなく当然の判断です。だから一切迷わなかったですね。」

 「仮に彼にマメが出来ていなくても同じ判断をしてたでしょうね。ただし、彼もあそこまでもたなくて、5回か6回で降板してたんじゃないですか。皆で日本一を目指す日本シリーズという大舞台だからこそできたんですよ。そういう意味では山井は本当によく投げました。」

 「あの時山井じゃなくて、エースの川上が投げていても判断は同じです。岩瀬に代えていますよ。でも川上だったら自分から岩瀬に代えてくれといってくるでしょうね。」

 「それほど岩瀬はうちにとって大事な存在だし、彼を最後に持ってくることを前提にすべてのゲームプランを立てているわけですから。」

 「山井には来年、再来年がある。それでなくても右肩を悪くしてこの2年放れていないんだ。あれで『行け』といって肩をぶっ壊したらアイツの野球人生は終わってしまう。指導者としてそれは出来ないでしょう。」

 「それより岩瀬をもっと評価してやってくださいよ。パーフェクトの試合を引き継いで出ていくわけですからね。その重圧はとんでもないほど大きい。それを表情一つ変えずに抑えるんだから岩瀬は大したものです。もっと評価されてもいい。」

 「もしあそこで岩瀬を出さずにいてその後北海道に行って3連敗でもしていたら、何故あの時岩瀬を出さなかったということになる。出していてもこうして色々言われる。」

 「だから何をやっても言われるけど、日本一になって文句言われるならいいじゃないですか。ファンであるお客様たちは一番そのことを望んでいたわけだし。」

 「マスコミが色々言うのは分かります。ベンチの中のことを知らないんだから、それはそれで仕方ないことですよ。色々言われることには慣れてますから。」

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2007年11月23日 (金)

【経営】指導者研究『落合監督』(その2)〜悲願の日本一達成

 そしていよいよ待ちに待った日本シリーズがはじまった。対戦相手は前年の2006年、1勝4敗で屈辱の敗北を味わった北海道日本ハム。

 ダルビッシュ始め武田久、マイケル中村など強力な投手陣を武器に一点を守り勝つ野球は粘り強く手強い。

 第一戦はエース川上が登板。ダルビッシュとの投手戦はダルビッシュに軍配があがる。

 第二戦以降、本来の打線の粘りを取り戻したドラゴンズは3勝1敗と大手をかけ、53ぶりの日本一に後一歩と近づいた。

 しかし落合監督を始め中日の選手の中に誰一人浮かれるものはいなかった。

 敗者復活から這い上がったクライマックス・シリーズ。一度は死んだ身。なりふり構わす全力投球してきた。

 指揮をとる落合監督も二度と同じ過ちは犯したくはなかった。それほど彼の日本一に向けてのこの四年間は苦難につぐ苦難のイバラの道でもあったのだ。

 2004年のシーズン、初めて監督として中日の指揮をとる落合監督。選手全員に10%の実力の底上げを求めトレード、解雇は一切行わず現有戦力で望んだ。結果はセ・リーグ優勝。

 しかし西武ライオンズとの日本シリーズでは勝手が違った。セ・リーグペナントレースのシーズン中、大車輪の活躍で優勝に貢献した岡本投手を引っ張り過ぎて自滅。

 流れは最後までもどらず、3勝2敗と大手をかけながら逆転で優勝をのがしてしまう。この時から落合監督にとって日本シリーズ優勝へ向けてのイバラの道が始まるのである。

 ここで『日本シリーズのような短期決戦ではシーズン中と異なり勢いのある選手を使うべきだ』ということを学んだ。

 そしてディフェンディング・チャンピオンとして望んだ2005年、この年から始まったパ・リーグとの交流戦でまさかの惨敗。その年の優勝は阪神だった。

 そして捲土重来を期し、入念な交流戦への対策の上で望んだ2006年。エース川上、ベテラン山本昌、鉄壁の守護神、岩瀬ら投手陣を中心にした守り勝つ野球というドラゴンズのスタイルが確立しセ・リーグ制覇。
 ベテラン山本昌は41歳という史上最年長でのノーヒットノーランという記録を達成し最後までチームを引っ張った。

昌

 しかし、日本シリーズでは第一戦をエース川上で勝ったものの、第二戦ではその山本昌を本人がまだ行けると言うので、必要以上に投げさせ結果流れが敵陣に行ってしまい、1勝4敗と負けてしまった。

 ここでも勝機とあれば、非情に交代させることも大切だとチーム全員が学んだのであった。

 ドラゴンズにとって、また落合監督にとってそれほどまでに日本一というのは遠い遠い、心の底から恋い焦がれた困難なゴールだった。

 そして経営者としてみれば、お金を払って球場に足を運んでくれるファンであるお客様様の最大の『ニース』こそがこの日本一だったのである。

 経営者であり、指導者である落合監督はその事を誰よりも痛いほど知っていた。

 だから日本シリーズ第5戦地元ナゴヤドームでの最後の試合。自分たちの最大のお客様であるドラゴンズファンの前で日本一になること。それ以外に落合監督もチームの全員も頭の中にはなかったのだ。

落合監督胴上げ


 だから直前の8回裏まで完全試合を続けていた山井投手を変えて、ストッパー岩瀬をマウンドに送ったのだ。

 そして、ここにもう一人悲痛な気持ちでこの瞬間を迎えていた男がいた。中村紀洋である。

 彼は近鉄時代から手首と腰に持病を抱えていた。そしてドラゴンズの日本一を目指して、チームが一丸となって戦っている中で、彼は自分の体にムチをうち続けた。

 医者は『野球が出来る体ではない。直ぐに手術を』といったが一日も長くドラゴンズの一員として、また現役選手としてファンに、そして恩人落合監督に恩返しをと強く願っていた中村選手。

 そして何としても落合監督に日本一の胴上げをプレゼントしたいと願う中村紀洋は、医者の薦めも振り切り、もはや満身創痍と化した自身の体を痛め続けたのだった。

 彼のこの願いは神に通じたのか奇跡はおこった。全試合出場し、打率.444、打点3。シーズン中はチャンスに凡退が多かった彼だが、この日本シリーズでは驚異的な活躍を見せ、見事シリーズMVPに輝いた。

 試合が終わりお立ち台に登場した彼は恥ずかしそうに帽子をとり、『本当に長かった。色々なことがあった一年でした。』と、過去の苦労から落合監督に拾ってもらった数々の思い出を振り返り涙を浮かべながらこう叫んだ。

 『自分を拾って下さったドラゴンズさんに本当に感謝します。』と。

 自分のチームなのに『さん』づけはあまり考えられないが、外様の自分を温かく受け入れてくれた監督、コーチ、チームメート、ファンに対する心からの気持ちだったのだろう。


 試合後のインタビューで中村本人は『シーズン前、落合監督にお前には期待していないからな』と言われた言葉が一番心に染みたと語っている。

 それは『落合監督の独特の言い回しなのだろう。そういうことで長いブランクがある自分に過大なプレッシャーを感じさせないようにしてくれているんだ。

 それほど自分たち選手のことを気遣ってくれる監督に何としても恩返ししなければという強い気持ちが自然に湧いてきました。』と語っている。

 その後も中村紀洋はウッズの抜けたアジアシリーズでも、怪我を押して、日本の代表チームの四番打者として試合に出続け優勝に貢献した。


 落合監督は来期の中村についてインタビューにこう答えている。

 『今年は何とか野球を続けたいという気持ちと勢いの中で体力も持ったかもしれないが彼も年々歳をとるなかで、今年の秋から来年のキャンプともう一度基礎から体力を鍛え直して行けば選手としての寿命も伸びていくだろう。』と。

 王や長島のように決して野球エリートとして順風な生き方をしてこなかった苦労人、落合監督は単に目先の活躍を手放しで喜ぶことなく、選手一人一人の人生を考えて指導している。


 これが落合監督の本当の『オレ流指導方法』であり、現場の選手の一人一人が心の底から彼を慕う理由と言えるのだろう。 


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